『名残』(大橋、竹の塚署)

11月に入ったばかりの、竹の塚警察署。建物全体が年末年始の備えに追い込まれているさなか、刑事課のあるフロアは特にその慌ただしさが顕著に現れていた。どの係のドアもひっきりなしに開閉され、固定電話と携帯電話の呼び出し音や署員たちの怒鳴り合う声、席を立つ音座る音、複数の足音などが、いつも以上に絶え間なく響いている。

同課強行犯係に所属している大橋武夫も、ご多分に漏れず朝からせわしなくキーボードを叩いていた。昨日が当直明けの休日だったこともあり、脇目もふらずに書類作成を続けている。

そんな大橋の横を、同期かつ同僚の岸圭一が通りかかった。彼もまた忙しそうに書類を片手に早足で移動していたが、そのまま刑事部屋を出るかと思いきや突然、小さく声を上げると大橋の真横で歩を止めた。

「それ、ウェンガーの秋冬限定モデルだろ?」

手に取って見たいという頼みに、大橋は眉間に皺を寄せてモニタを睨んだまま、腕ごと時計を岸の目の前へ突き出した。多忙中の大橋の無口と無愛想をよく知っている岸も慣れたもので、さして気を悪くした様子もなく手首に巻かれた傷ひとつないそれを自力で外す。裏を表を隅々眺めつつ、いちいち感嘆の息を漏らすところをみると、相当このブランドが好きらしい。

「俺も狙ってたんだけど、すぐ売り切れちゃったんだよ。いいよなー、このデザイン」

ロゴもモノトーンだし、夜光塗料も特殊だし、ベルトの質感がまたぐっとくるよなあ。くるくると真新しい時計を眺めながら熱っぽく感想を述べ続ける岸に注意を払っていないかのように見えた大橋だったが、岸が時計を返そうと礼を言った直後、急に口を開いた。

「やるよ」

「え?」

驚きというより、不審の声で岸が問い返した。

「やるって……?」

手にした時計を軽く掲げ揺らした岸に、モニタからは目を離さない状態で頷く。

「無理にとはいわないけど」

大橋は相変わらずラップトップに向かってキーボードを叩き続けている。岸は慌てて首を振った。

「いやいや、欲しいです、ください」

冗談半分の慇懃口調にお辞儀まで加えて岸は、スーツの内ポケットからメモ帳を取り出す。商品の金額とそれを支払う旨を走り書きして手早く署名と拇印を押すと、破ったページを丁寧に畳んで今まで身につけていた時計と共に大橋の傍らに置いた。

「明日中には必ず払う」

無言の頷きを確認した岸は、さっそく自分の手首に新品の時計を装着する。

「来週の合コンにしてくかなー」

幹事の子狙っててさ。嬉々として、岸が笑った途端。

一瞬だけ、キーバインド音が止まった。

「やめとけ、縁起悪いから」

短い忠告の理由を問う同僚に何でもないと呟くと、大橋は再び指を動かし、仕事の世界に没頭し始めた。

2012.9.18

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お読みくださりありがとうございました。

『時計』の続きというか、大橋視点の後日談になっています。

そもそも構想の段階では、『時計』は大橋視点の話で、オチがこれでした。

『時計』もこっちも、本当はもっと感傷的な場面や台詞もあったんですが、大橋らしくなかったので没になった次第です。

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