『時計』(東京湾臨海署安積班:桜井×黒木、大橋)




居酒屋に着いてとりあえず生ビールを注文してから大橋武夫が、品書きの季節のお勧めが載っているページを開いて黒木和也のほうへ向けた。自身はやや前のめりで逆さまに品目を追うさなか、あ、と小さく声を上げる。

「牡蠣蕎麦出てますよ。黒木さん、好きですよね」

よく覚えてたなと驚くと、大橋は品書きから顔を上げて笑顔を見せた。

「近しい人間の好みは把握しておけって、村雨さんに散々言われましたから」

その冗談めかしのなかには、わずかな誇りが混じっている。

「村雨さん」とは、黒木が所属している東京湾臨海署刑事課強行犯第一係の巡査部長、村雨秋彦のことだ。かつて大橋が旧臨海署、通称ベイエリア分署にいたころに組んでいた36歳のベテラン刑事で、今は黒木と大橋の後輩である桜井太一郎と組んでいる。

「相変わらずですか、村雨さんは」

大橋の問いに黒木が頷く。

「詳細は主に桜井経由でだけど」

黒木が補足すると大橋は、あいつも相変わらずなんですねと笑った。


秋の行事がひと通り過ぎ去ろうとしている街は、早くもクリスマスと年末年始の色に塗り替えられつつあった。互いの職場、竹の塚署と臨海署の交通の便を優先して行きつけにしている居酒屋の奥にあるレジ横にも、「忘年会/新年会御予約承ります」と書かれた張り紙がしてある。

「また忙しくなりますね」

和紙に書かれた墨黒々とした文字を眺めて大橋がぼやく。

年末に向かうこの時期、強行犯の刑事は目に見えて忙しさが増す。飲酒の機会が増えたり社会全体が気ぜわしかったりで、些細なことが大きなトラブルに発展しやすいからだ。地域係で十分まかなえるような案件さえ、年末は大事をとって強行犯の出動を要請されることが多くなる。

それでなくても大橋が臨海署を異動になってから上野署を経て所属している竹の塚署は、関係者の間で「最前線」と称されるほど犯罪発生率が高く多忙なことで有名だ。これから年末近くまでの刑事課など、黒木の想像を超える忙しさなのだろう。

事実今日も、当直明けの休日だと聞いていたのに大橋は仕事着を身につけていた。待ち合わせには時間どおりに来ているからおそらく、溜まった内勤仕事だけを片付けるために刑事部屋へ立ち寄ったに違いない。村雨も桜井も相変わらずだが、大橋自身も相変わらずのようだ。


ほどなくして運ばれてきたビールとお通しを皮切りに、何品かの肴をつまんで世間話が進むなか、醤油差しへ延ばした黒木の手首に大橋がつと目を留めた。

「時計、新しくしたんですか?」

律儀に失礼しますと断りを入れてから大橋は、黒木の手首を自分のほうに引き寄せ今はまだ傷一つない綺麗な文字盤を眺める。

「前のやつ、結構傷だらけでしたもんね。とうとう壊れちゃったとか」

「気に入ってたんだけどな」

腕を大橋に預けたまま黒木は、1週間前、窃盗犯係の応援で倉庫荒らしの現場に踏み込んだ際、逃走した被疑者を追って揉み合いの末取り押さえたときから腕時計が動かなくなってしまったことを、かいつまんで話した。

犯人の逮捕時、乱闘になったり体当たりをしたりで身につけていたものが壊れてしまうことは珍しくない。そして、修理するにしろ新調するにしろその代金を経費として落とせることはなく、皆、多くはない給料の中から自腹を切っているのが刑事の現状だ。

「そりゃ災難でしたね」

同じ立場としての同情を寄せて大橋は、黒木の腕を礼と共に丁寧に返したあと、「でも」と言葉を継いだ。

「それ、ウェンガーの新作ですよね。似合ってますよ」

新作シリーズの中でこれだけデザインが違うんですよね、針の夜光塗料も特殊なやつで、ロゴも赤と白じゃなくモノトーンで……と、話し始めてしばらく、同意どころか初めて知ったような感心顔をしている黒木に気がついた大橋が、不思議そうに瞬きをした。

「知らなかったんですか?」

頷いて黒木は、文字盤に手をかざし軽い暗がりにして針の光る様を再確認する。

「桜井から貰ったから」

なんのためらいもない告白に、うわ、と呟いて、大橋がくすくすと肩を震わせ始めた。

「惚気を聞かされるとは予想外です」

ひと足早いクリスマスプレゼントってやつですね。冷やかし口調に黒木は、照れなど微塵も見せずに苦笑して、大橋の発言を否定した。

桜井が腕時計をくれた理由は、クリスマスどころかプレゼントでもなんでもない。時計が壊れた当日が当直で買いに行く暇がなかった自分と、つい最近村雨に勧められてウェンガーの時計を買ってみたものの、いまいち自分には似合わなくて持て余していた桜井との利害が一致しただけだ。渡されたときに手の込んだラッピングもされてなかったことはもちろん、代金もしくは代替品を渡す約束も取り付けている。深い意味はないと伝えてみると、今度は笑いつつ呆れつつといったような溜息をつかれた。

「黒木さんて、捜査に関しては着眼点が鋭いのに自分のこととなるとからっきしですよね」

そこがいいところではありますがと茶化してから大橋は、残りのビールを一気に煽った。

「それ、ウェンガーのなかでも結構いい値段するやつなんですよ。デザインもほかのと比べて落ち着いてるし、機能面においてはまったく問題ないはずです」

通りすがりの店員に熱燗と猪口を二つ注文しつつ黒木を見直す。

「自分に似合わないって理由だけで桜井が持て余して黒木さんに譲るっていうのは、可能性として低いかと」

自分のスペアにしたっていいんだし。付け加えて大橋は、空のジョッキの底を眺めて続けた。

「もう一つ、自分が刑事になったばっかりのとき、村雨さんから真っ先に安い時計は持つなって言われたんです。時計は刑事の必需品だし小物で値踏みする人間がいるから、可能な限り丈夫でちゃんとしたやつにしろって。自分はそのとき、ウェンガーとかルミノックスなんかの存在を教えてもらったんです。だから、村雨さんが最近になってようやくウェンガー勧めたっていうのは少し不自然なように思えるんです」

一合徳利の熱い首根を慎重に持って、大橋が互いの猪口をなみなみと満たす。その所作を、黒木は黙って見つめていた。

確かに、大橋の論は一理ある。ブランドものに疎い自分でも、衝撃に強い特殊な腕時計の相場くらいは知っている。事実、桜井がこれを渡してくれたとき、代金はいらないと言われたが納得できずに支払いを強く希望したのは黒木のほうだ。似合わないからといって簡単に人に譲ってしまえる部類に入るものではないという意見には頷ける。加えて村雨は、大橋が刑事になって初めて指導を受けた人だ。今もいちばん尊敬していると明言している大橋が、村雨の行動に対して違和感をもったのなら、おそらく的外れな推理ではないのだろう。

しかし、やはりどこか腑に落ちない。桜井にしてみたら、イメージどおりのつけ心地ではない反動から時計に嫌気がさしたのかもしれない。最初は支払いを辞退したことも、タダでもいいからとりあえず無駄にならない道を選びたかっただけかもしれない。村雨のことにしても、ベイエリア分署時代に桜井が組んでいた安積剛志係長に気を遣って、持論を勧めるのが遅くなっただけかもしれない。

それより何より、もし万が一本当にクリスマスプレゼントだというのなら、回りくどくぜずに正直に言えばいいだけの話だと黒木は思う。仮に桜井が嘘をついているのだとしたらその動機が、一番、よくわからない。

「桜井の行動がさっぱり理解できないって、顔に書いてありますよ」

図星とまではいかないが、ひと息に猪口を煽った黒木の心中に極めて近いところを大橋が言い当てた。

「ものすごく、わかりやすいと思うんですけどね」

だめ押しのように大橋はにっこりと笑顔を見せて、空になった黒木の猪口に酒を注いだ。





暇を告げて部屋に戻ろうとしたところを黒木に呼び止められた桜井が、差し出された紙袋を受け取り覗き込んで目を丸くした。

「何ですか、これ」

赤地に白十字のロゴがあしらわれている紙袋の中には、銀色の紙とリボンに彩られた小さめの箱と茶封筒が入っている。

「時計と差額」

「えっと、それについては見当がついたんですが……」

ぎこちなく言って、桜井はまた紙袋の中へ目線を落とした。

「なんか、その、ラッピングが」

箱のほうの、絡み合った赤と緑の細リボンで構成されたいかにもこの季節ものといった装飾を指差す。

気を遣わせているような様子にひと言詫びてから黒木は、自宅用と言ったのに前の人と間違われてプレゼント用にされたことを告げた。

「あ、そうなんですか」

ですよねと呟いて桜井は、肩の力を抜き、ありがとうございますと頭を下げた。

「邪魔だったら箱捨てていってもいいぞ」

黒木がリボンを切るためのハサミを取りに行こうとすると、桜井が慌てた様子で手を左右に振った。

「いやいや、このままでいいですよ」

それからもう一度紙袋の中を覗き込んで束の間考えたあと、閃いたようにぱっと顔を上げて、茶封筒を取り出す。

「この差額で飲みに行きませんか、イブの日」

当直だけどと返すと、それなら、とすぐに次を提案する。

「これでケーキ買って差し入れに行きます」

それくらいいいですよね、桜井の言葉を肯定する権限は黒木にないが、たぶん係長なら構わないと言ってくれるだろう。

「何がいいですか、ケーキ。ホールだったらさすがに叱られますかね」

蝋燭はまずいですよね、イブ当日なら駅前でも買えそうですけど、でもそれじゃ味気ないし、かと言って買いはぐるのは避けたいし、あ、せっかくだからネットでいろいろ調べてみませんか? 次から次へと楽しげに案を出す桜井の、言葉はまだまだ尽きる気配がない。

今日は平日、明日も朝から仕事だけれど、今夜桜井はこの部屋に泊まっていくことになりそうだ。


まあいいか。心の中で呟いて、黒木はラップトップの電源を入れた。




2011.12.2


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原作黒木は敬語意外話さないのでいつも口調に悩みます。

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