『弓張月』(兼続×三成)
盛夏には茹だるほどの暑さをほこる京都も、初秋に入るとさすがに空気が澄んでくる。
石田邸の縁側には、黒漆に金細工の酒器が一つ、揃いの杯が二つ。
兼続が間もなく越後に戻る前のささやかな夜宴の肴は、塩と山菜のほか手入れの行き届いた庭から吹く虫の音を載せた長月の宵の風。
「このたびは済まなかったな」
ひと月近くにわたる伏見滞在中、ついに行くことができなかった遠乗りを詫びながら兼続は三成の空杯を満たす。
「次の機会には、必ず」
「次、か」
短く返した三成の言に厭味のかけらがないのは、彼の心の中に先日秀吉から達しがあった大陸攻めのことがあるからだ。
「しばらくは面倒ごとが続くな」
呟き、三成は兼続にも酒を注いでから自分の杯に口をつける。
「そうだな」
相づちと同時に、兼続もまた杯を口に運んだ。
大陸出陣のほかに、兼続、もとい上杉は、伏見に新しく築する予定の城についても命を受けている。おそらく豊臣と上杉のやり取りは昨年の奥州平定よりも頻繁になるだろう。文を行き来させることは決して嫌ではなかったが、他愛のない内容だけを書けるわけでもない。
とくに前者については秀吉の目的を考えるに、お互い気乗りない事柄の相談が今まで以上に増えるであろうことは想像に難くない。
「佐和山の政も、当分は棚上げだ」
間もなく大陸と日の本の往来が始まる故自領への気配りが欠けてしまうことを憂うは表向き、本当は戦の準備が嫌に違いないことは三成の人となりから容易に推せられた。たが、口に出せない心情を察した兼続は、それについては何も触れず、静かに手元の酒を空にした。
「三成」
束の間の静寂のあと。ふいに名を呼ばれて、三成は沈めかけていた面を上げた。
目先には、硬い表情の自分と対照に柔らかい眼差しのでこちらを見つめる兼続がいた。
「今度から文をしたためるときは、宵の縁側で書くというのはどうだ」
唐突な言い様に怪訝な顔をした三成に笑いかけてから、兼続は手酌で杯を満たす。
「見台を表に、月の明かりと手行灯だけを頼りに」
意を解せない三成の眉間の皺がさらに深くなったが、兼続は構わず酒を口にしながら言葉を続ける。
「そしてその文を、お互い宵の縁側で読むのだ」
瞬きを、屈託のない微笑みで返してきた兼続に促されて見上げた三成の目に映るのは、濃紺の空にかかる美しい弓張月。
「月光を同じくしていると思えば、寂しくあるまい?」
そう言って、兼続は三成の杯に酒を注いだ。
冴え冴えとした金色の優しい光は、その輝きの及ぶまま二人とその世界を包んでいる。
きっと、京都と同じく与板も越後も佐和山も、海の向こうの大陸さえ同じように包んでいるに違いない。
「……相変わらず、くだらんことを思いつく奴だ」
ふん、鼻をならして三成は注がれた杯に手を伸ばした。
「月の出ぬ日は文の読み書きができんではないか」
くるくると器用に手首を回して呆れた表情のまま酒面に映る月を眺めるも。
「でも、まあ……気が、向いたら」
目線を変えずにぽつりと呟く。
「たまには、そうしてやっても、いい」
落とした言葉に目を細める兼続の気配を察した三成は、慌てて杯を干すと、火照った頬を即座に酒のせいにしてそっぽを向いた。
涼やかだった秋風は、いつしか深い宵と共に冷えた夜風となって二人の髪を撫でている。
今は離れている互いの肩が、重なり合うのも遠くない。
2008.9.14
# 2008.9.14 微修正
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三成落ち込む→兼続慰めるというワンパターンです。
ちなみに、この話に出てくる大陸出陣とは文禄の役、一回目のほうです。このサイトでは1591年の設定で、伏見城の建築が1592年に始まることにしてますが、細かいところは突っ込まないでやってください。