『試行』(東京湾臨海署安積班:桜井×黒木)




机の上の電波時計のアラームが、21時を告げた。

東京湾臨海署刑事課強行犯第一係の部屋の明かりの下、桜井太一郎は山のように溜まった書類をやはり書類に囲まれている安積剛 志係長とともに、黙々と片付けていた。同じ部署に所属している三人の巡査部長、村雨秋彦、須田三郎、水野真帆と、桜井より3つ年上で巡査長の黒木和也はす でに帰宅している。

警察は24時間眠らないという言葉はよく使われるが、実際はそんなに毎日大事件が起こっているわけではない。もちろん所轄署 の中には昼夜問わず騒がしいしところもあるし交代勤務の部署は始終人の出入りがあるからキャッチフレーズに嘘はないが、ここ臨海署の刑事課は、管轄地区の 特徴もあって夜中に事件が勃発したり逮捕者が連行されて大騒ぎすることはあまり多いほうではない。


人気の少なくなったフロアの静寂を破ったのは、ノックもなしに勢いよく開けられたドアと目の覚めるような真青の制服だった。

「おい、一杯付き合え」

他部署に入ってきて名乗らずとも不思議に思われない、それくらいこの人物の名前は臨海署の誰も彼もが知っている。交通機動 隊、通称交機隊ヘッド、正確には小隊長の、速水直樹警部補。本来交機隊は警視庁の直属にあるため速水は厳密に言えば本庁の所属なのだが、彼は「俺は臨海署 の速水だ」と公言して譲らない。

そして、ここ強行犯第一係に顔を出した場合は誰に用事があるのかを尋ねることすら野暮になる。

「この状況を見た上で言ってるのか」

安積が、速水と書類の山の両方にうんざりした様子で応えた。

「急ぐ書類ってわけでもないんだろう」

「急ぐ書類だ」

「どのくらい」

「少なくともお前と飲みに行くよりは」

にやにやと笑いながら速水が安積の机に近づく。

「一時間待とう。大急ぎならとっとと終わらせたらいい」

しばらく考えたあと、安積はため息とともにわかった、と同意を示した。

いつものやり取りなのでさして気にもとめず桜井は書類作りを続けていたが、ふと感じた気配に頭を上げると、いつの間にかものすごく真顔の速水がものすごく近くにいた。

「お前、夜な夜な部屋抜け出してるらしいな」

デスクトップに両腕をかけてよりかかり、高い位置から低い声で尋ねてくる。

「何のことですか」

咄嗟には質問の意味がわからず桜井が不可解の表情を返すと、速水は少し考えてからそうか、と呟き、にやりと笑った。

「休日前後の夜はほぼ必ず、自分の部屋を抜け出して3階にある先輩のところを訪問して時には朝帰りもするらしいな、とまで言えば、思い当たるか?」

その、まるで見てきたような細密さに、桜井はここが職場で相手が上司の同期だということも忘れて、口を開けたまま動きを止めてしまった。

確かに速水は、署内の事情に詳しい。部署や役職の垣根を越えて表から裏から、どこから仕入れてくるのか何でも知っていると 言っても過言ではない。だから待機寮のことまでカバーしていたとしても不思議はないが、こうまで詳細に知られているのには正直驚いた。待機寮には交通機動 隊の人間も入居しているから情報源に事欠かないのだろうが、それを引き出す影響力は侮れない。

黙るを通り越して固まっている桜井に、速水は自分の仕入れた情報が正確なことを確信したようだ。

「あんなくそ真面目な奴、一緒に居て楽しいか?」

真顔は若干緩んだものの、理解できないという口調で疑問を投げられた。

安積係長の親友だからかなんなのか、速水は強行犯第一係、通称安積班のメンバーにだいぶ肩入れしていた。中でもお気に入りは 須田で、彼のいい意味で刑事らしからぬ立ち居振る舞いとツキの才能を高く買っている。しかし組んでいる黒木については、須田を理解して慕っているところは 認めるとしても人間性が生真面目すぎて面白みに欠けるという評価を下していた。

「楽しいですよ。勉強にもなりますし」

ちょっとした優越感の本音とともに表向きの答えも付け加えた桜井だったが、速水は優等生な補足などお見通し以前に聞く気もなさそうだ。

「まあ、確かにああいう」

桜井の邪魔をするなという安積の苦言を片手でいなしつつ親指でその人を指す。

「堅物タイプは、表と裏のギャップに味があるしな」

瞬きを返した桜井に速水は意味ありげに口の端を上げてからようやく安積のほうへ顔を向けた。




手元の缶ビールが空いた。深夜の報道番組も、終盤の天気予報コーナーに移っている。ここ最近の、黒木の部屋で過ごす ときの状況。いつもなら桜井のほうから何気なく声をかけてさり気なく誘う頃合いだ。だが今夜は、速水の言葉が妙に引っかかって常の行動にうつせない。こう いうときに限って少し首を伸ばせば届く距離に黒木の横顔があったりするから、余計に。


表と裏のギャップに味がある。


おそらく速水は、同意を求めるつもりでそう言ったに違いない。しかし桜井は、黒木の裏の顔、つまり表との差に相当するものを見たことがなかった。

黒木は、いつも冷静だ。職場でも私生活でも、もっと言えば二人きりの夜でさえ、その主軸は揺るがない。そこがいいところだと 感じてはいるが、贅沢をいえばもう少し気を許してくれてもいいのにとも思う。ごくごくたまに愚痴を口にすることもあるし積極的なときもあるから感情も性欲 もゼロではないことを知ってはいるが、それらの数値が人並み外れて低いのか、人並みなのに理性で押さえ込んでいるのかまではわからない。公私とも付き合い のある中で感情を垣間見せることがここまで少ないのだから、おそらく前者が正解なんだろう。

でも、もし。

関東地方の週間天気情報が流れるなか、ふと桜井は考えた。

もし普段はそういった感情を押さえ込んでいるのであれば、やり方次第で速水いうところの黒木の「裏の顔」を引き出せるかもしれない。


テレビの中では、キャスターが締めくくりの言葉を告げて静かな音楽と都心上空の映像が流れ始めた。

けたたましいCMに切り替わる前に黒木がリモコンの切ボタンを押したタイミングで桜井は、静寂を味方に背後からその両肩を深く抱き寄せた。

振り向いた所作は先への期待というより位置の確認に近かったが、目を合わせてからひと呼吸だけ間を置いて、桜井と同様に黒木も軽く口を開く。しかし割り込んできた舌に黒木が応えようとしたのを見計らって、桜井は大げさに顔を引き離した。

怪訝な眉に、意味を含めたふりをして薄い笑みを返し近づいては離れるを繰り返す。

しばらくして、誘いにのるのを諦めたらしい黒木の手が所在なげに力を抜いた。その瞬間、桜井は黒木の顔の動きを封じると、勢 いよく舌をねじこみひと息に強く吸い上げた。喉から苦し気な声が漏れ肩にかかる手に抵抗の意思が現れても構わず、体重をかけながら食らいつくように幾度も 角度を変えて口中の隅々に舌を蠢かせる。

ようやく互いが離れたとき、珍しく黒木は肩で息をしていた。桜井へ向けた視線には明らかに非難の色が浮かんでいる。

「すみません」

文句が出ないことを知っていながら素直な後輩の口調で詫び、桜井は呼吸を整えている黒木の手助けをするように、前髪をゆっくりとすき撫でる。

再び唇を重ねてしばらく絡み合いながら衣服越しに互いの肌を求め合う中、胸を擦った指先に黒木が小さく反応した。黒木がほか のどこよりもここに敏感なことに桜井はずいぶん前から気づいていたが、本人は隠したがっているようなのであえて素知らぬふりをしていた。だが今夜は、黒木 の上着を剥いで肌を露にさせてから、ひと舐めしたあと強めに甘噛みをしてみた。

瞬間、びくりと黒木の体がすくんだ。顔を覗き込みたいところを堪えて桜井は、無関心を装いながら指先と舌先で脆弱な部分を攻め続ける。

小刻みな呼吸の合間に押さえきれない喘ぎが漏れ始めたころ、桜井はようやく黒木の胸元から顔を離した。指の動きは止めずに見下ろした眼下の顔は、気配に気がつくとかたく閉じていた瞼をうっすら上げたが視線が合うなり目を伏せた。

少しだけ濡れている睫毛に優しく口付けを落としてから、桜井は額、鼻筋、頬、耳、首筋と、唇を下へ下へと移動させる。そのま ま下肢に近づきかけた矢先、黒木の手が桜井の肩をつかみ自分の体から引き離そうとした。こんなときに抵抗を示されたのは初めてで好奇心が頭をもたげたが、 あっさりと桜井は身を起こす。しかしすかざず下着越しに黒木自身に手を添えて、反応を確かめるようにわざと時間をかけてゆるゆると撫で始めた。もちろん、 じっと黒木を見つめることは忘れない。

強まる熱への羞恥にか、黒木が短く呻いてうつむいた。下顎を強引に上げるとすぐに目をそらして今度は唇を噛み締める。追い詰めたことに少しだけ良心が痛んだが、それを補って余りある支配感が胸に広がったのは否定しない。

無意識に緩んだ口元から吐息を落とすさまへ、心底かわいいですねと囁きたかったが、黒木の性格上、それを言ったら我に返って冷静になろうとしてしまうだろう。けれどこの先、こんな姿を前に己を抑え通して無言を極めこんでいられるほどの自信はない。

今日はここまでかな。

手を下肢から離し、桜井はようやく自分のシャツを脱ぎ捨てる。改めていつもどおりの夜を始めるつもりで黒木の背に腕を回すと、緊張が解けた体から解放への安堵が伝わってきた。

思わず、桜井は黒木を言葉の代わりに強く強く抱き締めた。




発信者の名前も見ずに応答したのは失敗だった。

『安積さんですか? 第二係の相楽です、今、大丈夫ですか』

居酒屋の喧噪が聞こえないわけでもあるまいにと思ったが、先方の周りのほうが騒がしいだろうことを思い出し、安積は仕方がないかとすぐに苛立ちを打ち消した。

『ちょっとね、人を寄越してほしいんですよ。一人二人程度でいいんです、収集がつかなくて。申し訳ない』

今夜、臨海署の管轄地区である国際展示場でここ数年若者の間で人気が高まってきたダンスグループの初コンサートがあり、警備 その他は警ら課や生活安全課の人間を中心に、相楽啓率いる強行犯第二係全員が補助としてかかわることになっていた。相楽の話によると、コンサートそのもの の警備は滞りなく済んだが舞台がはねたあとにファンの間で小競り合いが始まり、コンサートの興奮も相まってかなりの騒ぎに発展しかけているという。

時計と目の前の速水を見比べながら、安積はすぐに行きますとだけ答えて通話を終えた。

「だから第一係にも分担させろと言ってやったのに。派手なもんを独占しようとするからだ」

漏れ聞こえてきた会話に対して、速水が鼻をならした。

「そんな言い方するな。本庁経験者のほうが適した案件だという判断の下だぞ」

一応たしなめはしたものの、半分以上、速水の言う通りだった。相楽は一人二人「程度」と言っていたが、最初から応援を頼んで くれれば、間もなく23時を回ろうとしている今、寒空に部下を呼びつけることもなかったのに。一人は自分が行くとしても、あと一人は当然待機寮のメンバー からになる。暴走した若者相手なら須田は力不足だし桜井は今日だけでなく昨日も一昨日も遅くまで残業していたからだいぶ疲れているだろう。そうなると残る のは黒木しかいない。

「黒木を呼ぶか」

呟きながら安積が携帯電話をかけようとした途端、突然ひと息に目の前の日本酒を空けると速水が腰を上げた。

「よし、行くぞ」

虚をつかれた安積が驚きを顕わに立ち上がるのも忘れて、厚手のコートを羽織る姿を見上げる。

「何しに来るんだ、相楽をどやしにか」

「応援に決まってるだろうが。俺とお前とが行けば二人になる」

状況が状況なだけにひどくありがたい申し出ではあったが、いつもなら二人きりで飲んでいるときにこういう理不尽な緊急収集がかかって席を外そうとすると、若い奴に頼めだのあいつらに任せとけだのととりあえず文句をつける速水なのに、今夜は何故か協力的だ。

「どうしたんだ」

会計を済ませながら問いかける安積に、速水は彼特有の含み笑いを浮かべたまま、おどけて肩をすくめてみせた。



2011.2.3


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黒木は言葉攻めにどん引くタイプだと思います。

弱そうなのは村雨。

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