『思慕』(東京湾臨海署安積班:桜井×黒木)




秋が終わり、冬が訪れたお台場。

外は冷たい北風が吹き荒れているが、新しくなったばかりの東京湾臨海署独身寮、通称待機寮は、建材に良い断熱材を使っているらしく、部屋の中はさほど冷え込んでいない。

もっとも、桜井太一郎が室内の空気を暖かく感じているのには他の理由、黒木和也の部屋をようやく訪ねられたことによるほうが大きい。約1週間、厳密に言えば10日間は、ここ最近にしては間が空いたほうに入る。


今夜の黒木は、肌を合わせたのが久し振りなせいか、ひとつひとつの反応がひどく悩ましい。瞼をかたく閉じたままなのは相変わらずとして、いつもは特に感じていないようなところにも小さく息を吐き、敏感な部分に至っては細く切ない艶声を漏らす。本人としては眉間の皺に攻め立てる舌と指への非難をこめているようだが、同時に漏れる喘ぎと艶めかしく揺れ浮く体がそれらをすべて打ち消していた。

そんな所作を目の当たりにしては、当然、桜井のほうも息の上がりが早くなる。

きつく抱き締めたら同じ力で返してきた体の、引き締まった背中を撫でて唇を合わせる。噛みつくような口付けを交わし、桜井が黒木の内腿へ再び手を伸ばしたそのとき。


短いバイブレーション音に、反射的に二人の動きが止まった。


細かい5つ刻みの連続振動は黒木の携帯のもので、発信元は職場、刑事課強行犯第一係だ。

電話を掴んだその瞬間に通話ボタンを押した黒木は、同時に素早く桜井の腕のなかから抜け出していた。通話が途切れないように携帯を耳から片時も離さず、頬と肩に挟んだり持ち手を替えたりしながら、脱ぎ散らかされた服を洗濯かごにまとめて常に用意してある新しいシャツと仕事着をまとう。その間、5分弱。

通話が終わる頃、黒木は身支度の半分以上を終えていた。

「何があったんですか」

見慣れた光景と鳴らない自分の携帯を眺めて桜井が聞いた。

今日の当直は須田三郎巡査部長だから、もし強行犯全員を呼ぶ必要が生じたのなら、必ず黒木の前に安積剛志係長に連絡が行く。次に巡査部長の村雨秋彦、同じく巡査部長の水野真帆の順だ。それなら桜井にも、そろそろいつも組んでいる村雨から連絡がくるはずだ。いや、時間的に来ていないとおかしい。

「青海駅付近の路上で喧嘩だ」

スーツを羽織り終えた黒木が答えた。

須田によると、中年の男3人と若い男2人が駅前のコンビニ前で喧嘩を始めたという。両方とも酔っているらしく、かなり派手な言い争いに発展しているそうだ。忘年会やら納会やらが増える師走なら、さして珍しくない通報である。

自分が呼ばれなかった理由は理解した桜井だったが、今度は逆に黒木が呼ばれたことに納得がいかない。水をさされたこともあり、つい、口調に非難めいた色がつく。

「そんなの、地域係でも十分じゃないですか」

「片方が刃物をちらつかせているらしい。傷害に発展する可能性がある」

でも、と言いかけ、桜井は思い直して口を閉じた。

お台場は、かつての埋め立て工業地帯というイメージは過去になり、若者が集う場所になっている。彼らのなかにはナイフを所有している者たちもいることは確かだが、大半は結果として単なる虚勢と威嚇になっている。そんな見栄張り目的の凶器を警戒していちいち強行犯の刑事が呼び出されたのでは正直やっていられない。

しかし、こういうときの須田の勘は、恐ろしいほどよく当たるのだ。強行犯全員にではなく黒木にだけ応援を頼んだことすら、何かを感じとっての結果かもしれない。桜井も黒木のそれには劣るが、須田のことはそのツキと勘も含めて尊敬している。

それならと、飲み込んだ抗議の代わりに桜井は急いで下着を身に付けた。

「ぼくも行きます」

こんなときのためにこの部屋に置いてある仕事着一式を、作り付けの狭いクローゼットから引っ張り出す。

刑事として事件の話を聞いてしまったからには無視したくないという思いも人手が多いに越したことはないという考えもあったが、何より黒木とまだ一緒に居たかった。もし大した事件に発展しなければ、帰ってきて朝食くらいは二人でとれるかもしれない。

だが、桜井の申し出に対する黒木の返事は「来なくていい」だった。

「お前の携帯が鳴ったわけじゃない」

靴を履き、時間を確認しながら言う。

「そんなこと関係ないですよ。たまたま会ったとか念のため声をかけたとか、理由なんか何でもいいじゃないですか」

桜井は支度の手を止めずに食い下がったが。

「だめだ」

黒木は、きっぱりと首を振った。

「須田チョウの気遣いが無駄になる」

黒木の指摘どおり、12月に入ってから一番冷え込んだ今日、桜井は午後から夜にかけて屋外へ出っぱなしだった。刑事部屋に戻ったとき、体の芯まで凍えきった桜井を見た須田は心底同情した顔をして、大変だったな、早く帰って風呂入ってゆっくり休め、と、優しい言葉をかけてくれた。そのとき黒木もそばにいたから、須田がどれだけ桜井を労っていたかを目の当たりにしている。須田の思いやりを覆すことは、黒木のなかではあり得ない。

桜井が黙った一瞬の隙に、黒木は部屋を出て行ってしまった。




翌朝、桜井はいつもと同じ時間に出勤した。早めに行こうかさんざん迷ったが、黒木がああいう態度を取った以上、連絡があったときに一緒にいたとは言えないし、今後も知らなかったことにするほうがいいだろうと判断したためだ。一晩中待っていた携帯が、結局鳴らなかったということも理由のひとつに含まれている。

部屋に着くと、すでに須田から連絡を受けていたらしい安積係長がいた。続いて水野、家族持ちの村雨がくる。須田と黒木以外の安積班が全員揃ったところで、安積が須田からの報告を皆に伝えた。


案の定、須田の予感は的中していた。

通報の直後、若いほうの1人が手に持っていた刃物、正確にはバタフライナイフで中年三人に襲いかかったのだ。須田と黒木が駆けつけたとき、二人組のうち凶器を持っていなかったほうは交番巡査の手で捕まっていたが、襲ったほうの若者は逃走していた。被害者たちは命に別状はなかったが、一人は腕を深く切りつけられていた。黒木が被害者から話を聞くために病院に同行、須田は片割れを連れて署に戻るという連携ができたため、結果として捜査の立ち上がりが早くなった。

逃走しているのは相田圭太、21歳。勾留されている友人の岡田信人の証言をもとに、須田と黒木は朝から青海駅周辺へ聞き込みに出ていた。すでに居場所の目星もつきつつあるらしい。

「やっぱり須田君の勘はすごいわね」

水野が桜井に笑いかける。

どうしても浮かんでしまう昨夜の諸々を追いやりながら、桜井がほんとですね、と軽く返そうとした矢先、電話が鳴った。たまたまそばにいた水野が受話器を取る。話が進むにつれて、顔が真剣になってきた。

「わかりました。青海JJビルですね」

通話を終えた水野が、先ほどの笑顔のかけらもなく係長に告げる。

「青海駅近くの事務所で男性の死体が発見されました」

第一発見者はビルの清掃員。話によると、死んでいるのはその事務所の社長らしい。

本来であれば電話を受けた水野と、彼女と組んでいる安積が行く状況だが、安積は当直明けの須田と交代するために黒木に合流するとの判断の結果、水野、村雨、桜井の三人で現場に向かうことになった。


到着した現場は、いつものとおり、人一人が死んでいる独特の空気と臭いを放っていた。

桜井たち三人が到着したときにはすでに、地域係と鑑識、機捜の人間たちが現場を確保しつつ証拠を集め始めていた。

遺体の身元はこの事務所の社長で保険代理店経営の田村文男、47歳、住まいは蒲田。ポケットの中の財布に免許証があったのが幸いした。

デスクのすぐ横にある応接机のそばに倒れている被害者の状態から見て、死因は硬そうなその机の角に右側頭部をぶつけたことによるらしい。倒れ方から見るに、田村は左側頭部に強力な一打を受けてデスクから横に転倒したようだ。一見したところ押し入った形跡と財布や金庫、その他金目の物が盗られた様子がないことから、顔見知りの犯行で目的は強盗ではなかった可能性が高い。

「これ、新品ですね」

水野が、死体の足下に転がっている鉄パイプを指した。指紋の収集を終えて番号札が立てられた長さ50cmほどのそれは、かすかに値札を剥がした切れ端が付着していた。鉄パイプはかなりありふれた凶器だが、そのへんの工場から失敬したものではなく犯行の直前に購入されたものであれば事情が変わってくる。販売店から犯人が浮かび上がるかもしれない。

死体を見たショックでうずくまる清掃員に水野が聞き込みをし、村雨の指示で桜井がそのメモをとる。その間、村雨本人は安積に報告を入れ、指示を仰いでいた。

今回の事件は、ガイシャの身元も割れているし凶器も見つかっていて、入手経路の確保もできそうだ。このままいけば殺人事件と断定され、正式に捜査が始まる。昨日の夕方前には確実に生きていたという清掃員の証言から殺害時刻もだいぶ狭まったし、血なまぐさい事件ではあるが現時点では幸先のよい出だしなのにもかかわらず、村雨は安積と延々話を続けていた。

いったいなにがそんなに……。不思議に思いながら桜井がメモをとっていると、電話を切った村雨は難しい顔のまま水野に近づいてきた。

「この件、昨日の傷害事件との関係が出てきた」

「昨日のって、須田君が第一報を受けた事件ですか?」

水野が疑問と驚きで目を開く。

「被害者三人が、この事務所の従業員だったらしい。聞き込みによると昨日、仕事帰りに飲んでいたというから、話を聞かなきゃならないんだが……」

言いにくそうに、村雨が言葉を切り、また眉間に皺を寄せる。

「そのうちの一人、手を切りつけられて入院していた男が病院から姿を消してしまったようなんだ」

逃げたのは寺内正博、30歳。ほかの二人、須藤健司と小野山武についてはすでに居場所を押さえているという。

事件発生から重要参考人の身元、顔、名前が割れるまでがかなりの短時間で進んだことを考えると、身柄の確保まではさほど遠くなさそうだ。おまけに寺内を含む三人は、被害者というかたちであったとはいえ、つい昨夜黒木と話をしている。これも捜査上、大きなプラスに働くだろう。ただ、事件が広範囲になるとそれだけ人手もかかるし所轄だけでは動きにくくなってしまう。

「とりあえず係長がこっちに向かってくれている。10分くらいで着くそうだ。須田にも連絡しないといけないな。思ったより大掛かりになりそうだし……当直明けなのが申し訳ないが、今は手が欲しいから」

「あっちはどうだったんですか?」

水野の問いに村雨が答える。

「係長の話だと、ついさっき相田の潜伏先が割れたそうだ。黒木が応援の第二係と地域係とで乗り込む寸前らしい」

二人の会話から、相田の手錠は黒木がかけることになるなと桜井は予測した。そうなると、その後の取り調べも必然的に黒木が行うはずだ。相田が素直に自白しなかった場合、長ければ丸2日はかかりっきりになるだろう。徹夜か、交替して待機寮に戻ってきても風呂に入って寝る余裕しかなくなる。もし相田が素直に認めたとしても、送検やら何やら、諸々の手続きと書類書きで当分の間、黒木が忙しくなることは避けられない。

ほどなくして安積が到着した。村雨、水野と、今後の方針を検討している。どうやら村雨の考えどおり、重要参考人の行方不明となると事件性が増すため、早めに捜査本部を立てたほうが捜査上効率良く進むかもしれないというのが安積の判断だった。

帳場が立つのか……。

話を聞きながら、桜井はますます気を滅入らせた。

帳場が立ったら、2つとも所轄で起きた事件だから第一係全員がメンバーに入るはずだ。もしかしたら須田黒木組は後からの合流になるかもしれないが、どちらにせよお互い忙しくなる。また私的に会えない日々が始まるのかと思うと同時に、桜井は、なんだか昨夜のことが遠い過去の出来事で、どう手を伸ばしても届かないもののような気分になってしまった。

夜中の呼び出しで中途半端に終了を余儀なくされたのは、何もあれが初めてではないし、むしろいつでもそういう覚悟をしている。一度なんか、最後の最後で二人とも緊急の呼び出しに寸止めされたこともあった。それはこの職業を続けている限り仕方のないことだからとうの昔に諦めている。

でも、昨夜の黒木はいつもと違って少しだけ大胆だった。珍しく積極的な印象を受けた。だからこそ、あんな状態で中断されていわゆるお預け状態なのは、正直辛い。

そもそもあのとき、桜井もそばにいますがとでも一言言ってくれればよかったのに。

そうしたら少しは……

「桜井!」

村雨の声に、慌てて桜井は意識を引き戻した。すぐその叱責を理解し、携帯電話を取り出して臨海署に連絡を繋げる。

先ほど、三人は帳場が立つかもという話をしていた。もしその可能性があるなら、まず課長に連絡をしてから総務にも話をし、会議室の空きを確認したり宿泊準備を相談したりと、やることはたくさんある。ぼんやりしている暇ははい。

村雨からはそれ以上なにも言われなかったが、課長につないだ電話を安積に渡す際、後ろから小さい溜息をつかれた。


その夜、桜井は夢を見た。

夢の中で黒木は、この上なく甘えた声で桜井の名前を呼び、腕を絡ませてきた。

熱に浮かされたような、艶のある眼差しでこちらを見てから身を委ねてくる。

応えて強く抱きしめて、このままずっとこうしていたい、そう思ったところで目が覚めた。


翌朝、事件は急展開を見せた。

それはちょうど、関係各所から今回の役割分担や施設、会場の設営などを始める指示が出る寸前。

寺内正博が、自首してきたのだ。



「殺すつもりはありませんでした」

村雨桜井組が担当した寺内の取り調べの、開始後第一声はこれだった。

前々から田村のワンマンぶりに対する不満があった寺内は、事件の日、会社がひけたあと、残業をしている田村のもとを訪れた。鉄パイプは脅しのつもりだったが、田村の、寺内の文句に対する小馬鹿にした態度にかっとなり、鉄パイプで田村を横から殴りつけたらその勢いで応接テーブルの角に頭をぶつけ、あっさりこと切れてしまった。怖くなり急いで帰ろうとした矢先、同僚の二人、須藤健司と小野山武に会い、酒に誘われた。

「本当は一刻も早く帰りたかったのですが……」

いつもの自分なら断らないだろうと判断した寺内は、不審に思われないよう飲みに行き、べろべろに酔った「ふり」をした。やはりいつもの自分に近づけようという目的で、もちろん本当は少しも酔えなかったのだが、同僚二人は疑いもしていなかったようだ。

そしてその帰り道、相田圭太と岡田信人に絡まれたのだ。やっかいごとは嫌だったが酔うと喧嘩っ早くなるいつもの自分なら売られた喧嘩は買うだろうから、率先して前に出た。それが裏目に出て怪我をしてしまい、あげく病院まで刑事が同伴してきて焦った。いいと言うのに念のために一晩の入院を促され、仕方なく従ったものの怖くなって逃げた、というわけだった。

その後、須藤と小野山から連絡を受けて警察が自分を探していることを告げられたため、観念して最寄りの交番に足を向けたそうだ。

結果帳場は立たず、事件解決と見て、安積班のメンバーはその裏付けと事後処理を行うことになった。おそらく自白通りの展開だったのだろうからそう手間はかからないだろう。

一方きっかけとなった傷害事件のほうは、桜井の予想どおりあの後すぐ黒木が相田に手錠をかけ、取り調べなどの事後処理も中心になって行っていた。関連性のある事件とはいえ、お互いすれ違いのまま日々が過ぎていった。



それから、一週間。

ひどく寒い日で、明日は朝から雨という予報が出ていた。終業後に須田、黒木と飲みに行ったあと一度自分の部屋に戻ってから黒木の部屋を訪ねた桜井は、部屋に上がったとたん携帯の振動を感じた。発信元はもちろん職場。相手は当直の村雨からで、死体発見による応援の要請だった。

通話を終えてから桜井が顔を上げると、意外にも黒木と目が合った。黒木はいつもの通り冷静な表情だったが、桜井の内心に少しの驚きと嬉しさがこみ上げる。しかしそれは表に出さず、報告のような口ぶりで言った。

「海浜公園で上がったそうです。自殺か他殺かは不明です」

「発見者は?」

「そこまでは。大方、デート中のカップルかなんかじゃないんですか」

「災難だな」

そう言うものの、黒木は表情も口調も淡々としている。


ぼくたちみたいですね。


桜井は、心の中でそう呟く。その言葉を口に出せないのは刑事だからであって、決して自分たちの気持ちが通じ合っていないからじゃないと思いたい。

じゃあ行きます、そう言って靴を履き終えて扉を開けようとした矢先、ふと思いついて振り向いた。

「黒木さん」

呼ばれてこちらを見た黒木のほうへ、靴を脱ぎ捨てて近づくとその頭を引き寄せ深く口付ける。

そのまま、桜井は何も言わずに踵を返すと急いで靴を履いて部屋を出た。


後ろからドアの開く音も聞こえないし携帯にメールがくることもないのはわかっている。期待もしていない。小さくでも黒木の心に何かが残れば、それで満足だ。


今夜、あの人は自分の夢を見てくれるだろうか。

そんなことを思い浮かべながら、桜井は待機寮の玄関をあとにした。



2011.1.2

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