『伝心』(東京湾臨海署安積班:桜井×黒木な大橋×黒木)




不思議そうな顔をしてこちらを見上げる黒木和也に、濡れ髪の桜井太一郎はうっかりしたような笑顔をしてみる。

「戻ってきたらダメでしたか?」

返答はわかっていても、あえて聞く。案の定、黒木は「別に」と短く答えて手元の文庫本に目を戻した。

「邪魔だったらすぐ戻りますから」

一応気遣いを見せてから冷蔵庫を開け、桜井は風呂に行く前に開けた炭酸飲料を取り出した。最初は冷蔵庫に私物を置くのはどうかと思ってそのつど断りもしたが、返ってくるのはいつも「構わない」なので、ここ数週間は買い置きも含めて好きにしている。


臨海署の待機寮が新しくなってだいぶになるが、いまだ部屋に未整理の段ボール箱が2つばかり転がっている桜井からすると、整理整頓されていて物が少ない黒木の部屋は自分の部屋より居心地がよかった。もちろんつい入り浸ってしまうのには他の理由のほうが大きいのだけれど、もし聞かれたら部屋が片付いていないことを口実にするつもりでいる。


飲み物を4分の1ほど残した状態で黒木の隣に腰を下ろした桜井は、読んでいる文庫本のタイトルを見て一瞬、我が目を疑った。

「文庫サイズの刑法本ですか」

文庫の存在というよりそれを入手して週末の夜に読んでいる黒木に思わず漏れた呟きだったのだが、本人はそうはとらえなかったらしい。

「持ち運びに便利なんだ」

確か民法のもあったはずだと即座に立ち上がる。部屋の広さの割りには大きめの本棚へ向かってこちらが頼んでもいない目的の物を真剣に探す後ろ姿に、桜井はつい目元を緩めてしまった。職場では運動選手特有の几帳面さと俊敏な動きで風変わりな須田三郎巡査部長を支えるしっかり者で通っている黒木の、人並み外れた堅物ぶりにはいつも和まされる。

「ほら」

自分が後輩にどう見られているかなど露程も気づいていないだろう黒木は、民法の文庫に刑事訴訟法のものも加えて桜井のところへ持って来た。正直読みたい気分ではないがせっかくだしと、桜井は手渡された本をぱらぱらめくってみる。意外と読みやすいですねと無難な感想を述べながら、中身についてなんとなく世間話が始まる。と、どこかで振動音が響いた。黒木も桜井もとっさに自分の携帯に手をかける。鳴っていたのは黒木の携帯だった。


通話の最初に名乗らなかったところをみると、職場からの呼び出しではないようだ。桜井がほっとしたのも束の間、黒木は何故か時計を見てから桜井を見、着替えの入っている狭い作り付けクローゼットを見る。電話にいったんの暇を告げて通話口を押さえると、問いかけ視線の桜井のほうを向いた。

「青海駅に大橋が来てる。これから会わないかって」

「大橋さん?」

予想外の名前に、桜井は思わず驚きの声を上げた。


大橋こと大橋武夫は、東京湾臨海署の規模がまだ小さくて「ベイエリア分署」と通称されていたとき同じ課に居た刑事だ。歳は桜井より1つ上、ベイエリア分署時代は桜井が組んでいる村雨秋彦巡査部長と組んでいた。ベイエリア分署を異動になった後は上野署を経て、現在は都内屈指の多忙な署、竹の塚署の強行犯に所属している。

「なんでこんな時間に」

自分たち同様独り身の大橋も、竹の塚署の独身寮に住んでいるはずだ。ここから竹の塚署までは電車で一時間半はかかる距離なのに、時計の針はもうすぐ22時になることを示している今、なんでお台場にいて黒木に連絡を寄越すのか。桜井は心の中で眉をひそめる。

「さあ。聞き込みかなんかじゃないのか。車だって言うし」

1人で? 問い返そうとして桜井はやめた。刑事は基本2人体制で行動をするが1人で聞き込みをする場合も多々あるし、大橋の行動にけちをつけるみたいに見えてしまう。

「どうする?」

問いかけ方から察するに、黒木の中では桜井も行くことが前提になっているようだ。嬉しい反面、今は一人ではないという宣言と行かないという選択肢の2つがないことに桜井はがっかりしたが、態度には出さなかった。

「せっかくですけど、今回は遠慮します」

できるかぎり朗らかに、桜井は申し出を辞退した。

「風呂入っちゃいましたし。機会があったら飲みに行きましょうって伝えてください」

「わかった」

通話を再開して待ち合わせの算段を始めながら黒木はクローゼットの私服に手をかけている。電話を切ったとたん部屋着を脱ぎ、ジーンズを履いてハイネックシャツの上から薄手のダウンジャケットを羽織る速さは、呼び出しのときと変わらない。


また、携帯が震えた。今度はメールらしい。先方が車だということを考えると待ち合わせはテレコムセンター駅前かなとぼんやり思いながらも桜井は、どうでもいいかと即座にそれを打ち消す。

「一応、渡しておく」

携帯を確認する傍ら、引き出しの中からスペアのカードキーを出して机に置く。

「わかりました」

桜井が手に取ったところをしっかり見届けて、黒木は部屋を出て行った。


一人になり、桜井はカードキーと自分の携帯を見つめる。ややあって首を振ると、桜井は刑法の文庫本を手に取り黒木の布団にひっくり返った。



湾に面した待機寮前の道路には秋の終わりを告げる風が吹いていた。これからくる冬の到来を感じさせる、冷たく澄み始めた風。湿度は含んでいても、どことなく透明な風。

予想通り、大橋の服装は仕事着だった。車の外、運転席の前に立ち、黒木の姿を確認するや手を上げる。応えて黒木も足を速めた。

「すみません、こんな夜中に」

お詫びにと渡してくれた暖かい缶コーヒーを受け取って黒木が車に乗り込むとすぐにエンジンがかかり、カーラジオから静かな洋楽が流れ始める。時折入る警察無線を邪魔しない、小さな音量だ。

「どうしましょうか。俺は食事済んでるんですけど」

「俺も腹は減ってない」

「じゃ、このへん流してもいいですか、久し振りに」

とりあえず出しますと言い、大橋はアクセルを踏んでゆっくりとハンドルを切った。同乗したことは数回しかないが、いつも発進が滑らかだなと黒木は思う。


週末のお台場の道路はかなり空いていた。不景気が長引く昨今、土曜日の夜にレインボーブリッジを渡りお台場まできてドライブしようと思う人間は少ないのかもしれない。

「お邪魔じゃなかったですか、今日」

早すぎず遅すぎず、海を右手に運転しながら茶化し気味に大橋がちらりと黒木を見た。

「邪魔?」

「週末だから。桜井といたんじゃないかと思って」

「いたけど、別に……」

一緒に来ないかと声をかけたが断られたことと機会があったら飲みに行きたいという桜井の言葉を伝えると、大橋は苦笑しつつ余裕だな、と呟いた。怪訝な顔をした黒木には気にしないでくださいと言って、小さく笑う。

「桜井が羨ましいなと思っただけです」

時折海側に視線を動かす大橋の表情から何がそう言わせたのかおおよその見当がついたが、黒木はそれを口にはしなかった。


大橋がお台場に来ていた理由は、やはり捜査の一環だった。

「被疑者家族のところに来てたんです」

信号待ちの間、シートにもたれて大橋が言った。

「舎人公園の敷地内で死体が見つかりまして。16時ごろです。死因もほぼ確定してるので、明日の朝刊に載るかもしれません」

話によると、正確には15時47分、学校帰りの高校生の集団がベンチ後ろの茂み奥で男女二人が折り重なって倒れているところを見つけた。あたり一面血の海だったためすぐに119番通報をしたが、二人ともすでに死亡していたという。

「解剖の結果はまだですけど、死因は男女ともに失血死の可能性が高いです。男のほうがまず女の頚動脈を切ったあと自分の手首を何箇所か切ったようで。傷の具合などから見てもまず間違いないというのが鑑識と機捜の見解でした」

二人とも免許証と社員証を携帯していたので身分はすぐに割れた。ごく近所にある某不動産系企業の営業部部長である男性と同部企画課の女性。二人とも既婚者だが、男、つまり死亡した被疑者は妻子と別居中だった。妻子だけが住んでいる男の元自宅がお台場のマンションだったため、大橋はここまで来たのだそうだ。

「嫌な役割だったな」

黒木が心底ねぎらいの言葉をかけたのは、被疑者のであれ、被害者のであれ、遺族に死を伝える役割は決して気持ちのいいものではないからだ。死亡した人間が愛されていれば遺族は涙に暮れ、呆然とし、時には意識を失う。真逆の場合でも、突き放した遺族の物言いに殺伐とした空気が流れてやるせない空間が生まれる。そして刑事の仕事はその報告から始まりとなるのだ。たとえ今回のように被疑者死亡が明白であっても人が死んでいる限り、生前はどういう人間だったか、家族は事件当時何をしていたか、こんな状態のときに鬼だ悪魔だと罵声を受けながらも質問しなければならない。

「今回は家庭内が冷えきってましたから、そんなにダメージはなかったですよ」

大橋は軽い調子だったが、目は笑っていなかった。被疑者の妻に相当あたられたのだろう。たとえ冷めていたとはしても、かつては一生を誓い合った夫が女性を刺して自殺したと聞けば誰だってやり場のない感情を誰かにぶつけたくなる。仕方がないとはいえとばっちりには変わりない。

「ということは、女性のほうは“被害者”なのか?」

話を脳内で整理しながら黒木が質問すると、大橋はなぜか少し間を置いてからいいえ、と首を振った。

「心中だったんです」

死亡した男女は、会社の同期だったという。お互い気持ちを言い出せないまま異動になり別々の人間と結婚したが、数ヶ月前の人事で再び同じ事務所になったことが切っ掛けで昔のすれ違いが発覚し、男女の付き合いが始まったそうだ。心中に至ったのは、女性が所持していたと思われる携帯電話の膨大なメールのやり取りから察するに、相当思い詰めての結果らしい。

「心中とされているのは連名の遺書があったからなんですけど」

ブレーキと共にふと言葉を切って、大橋は前方のタクシー灯を見つめる。

「短く、“遅すぎた。あの頃に戻りたい”って、書いてありました」

その、物思いに沈んだ低い口調は、大橋にしては珍しく感傷を帯びていた。助手席の窓から流れる景色の合間に時折映る運転席の横顔にも、黒木が見たことのない憂いが浮かんでいる。

それきり大橋は口をつぐみ、運転に集中し始めた。しばらく、夜の車内にカーラジオの音楽と時折入る警察無線の声だけが流れる。


思いつめた果ての情死に遭遇するのは、刑事の世界に身を置いていれば決して珍しいことではない。大橋だって、初めて心中事件を目の当たりにしたわけではないはずだ。普段は割り切りが早い上に関係者の湿っぽい話を嫌うのになぜ急に考え事を始めたのか、黒木は不思議に思う。


やがて車は、臨海線に沿って東京ビッグサイトの手前、湾に突き当たる二つ前の十字路を左折した。有明三丁目二丁目を経由して公園を右手に突き当たりのT字路までくるとまた左折して、湾をまたぎお台場海浜公園を通過する。船の科学館そばまで来ると大橋はスピードを緩め、交差点が目視できる適当な路上に車を止めた。エンジン音が切れてしんとした車内に、規則正しいハザードの機械音だけがやけに高く響いている。

「ここは変わんないですね」

ようやく、大橋が口を開いた。

「この風景を見ると、あの頃に戻りたくなりますよ」

懐かしそうに、科学館のほうに目を向ける。

「また村雨さんと組みたいってことか?」

桜井が羨ましいという発言と大橋にしては感傷的な態度とを合わせて、黒木が推測をからかい口調にして笑った。実際、当時はずいぶん村雨の指導に参っていたが、異動後はむしろあのスパルタに感謝していると、大橋は事あるごとに言っていた。今だからこそ村雨さんから吸収できることがあるはずなのに、とも。

しかし、大橋のそれに対する答えは困ったような目線だけで、言葉は何も返ってこなかった。


時間が止まった空間の横を、幾台もの車が通り過ぎる。

前方の交差点は、右に曲がると臨海署、左に曲がると青海駅だ。互いに幾度差し掛かったか知れない前方の交差点を、時にはスピードを上げて、時にはゆっくりと、何台もの車が曲がっては消えてゆく。


長い長い沈黙をやぶったのは、静かな大橋の声だった。

「黒木さん」

呼ばれて黒木が顔を上げると、フロントガラスに映る大橋はハンドルに手をかけて真っ直ぐに前を凝視していた。

「ベイエリア分署にいたときから。……ずっと、想ってました」

村雨さんのことじゃなくて。その名前が出た瞬間、ガラス越しに互いの目が合った。

「異動になったとき忘れるつもりだったんですけど、やっぱり諦めきれなくて」

無表情な黒木と対照的に、大橋はわずかに口元を歪めて心持ち目線を下にした。

「もちろん、自分が出遅れたことも遅すぎたこともわかってます」

その意味するものを察して口を開きかけた黒木に首を振り、大橋は言葉を続ける。

「だけど……いえ、だから、自分の気持ちにちゃんと決着をつけようと思って。今日、連絡したんです」

ひとつ大きく息をつき、大橋はおもむろに姿勢を正した。

「さっき電話したあと、ダブルで部屋とったんです。青海駅前のビジネスホテル」

黙ったままの黒木の目を、真正面から見つめる。

「黒木さんがこないなら、キャンセルします」

視線をそらさず、大橋はきっぱりと言い切った。


再び訪れた沈黙の間に、何度、信号が切り替わっただろうか。

幾度めかの青信号が黄色から赤になったのと、俯いていた黒木が目を上げたのと大橋の手が伸びて前髪に触れたのは、ほとんど、同時だった。

梳き撫でた流れで、顎に手がかかる。

僅かな間を置いて、唇が重なった。

軽く吸い上げ、口中に入り込んだ大橋の舌は壊れ物を愛でるかのように穏やかに蠢いて黒木の舌を誘う。

かなりの時間そうしていたように思えたが、本当は数十秒だったかもしれない。

黒木から離れた大橋は無言でエンジンをかけるとアクセルを踏み、ハザードを切ってから左折のウィンカーを出した。



到着したビジネスホテルは真新しく、最新式のフロントレスタイプだった。二人とも無意識に監視カメラの位置と個数を確認して、なんとはなしに苦笑し合う。

部屋は単なるビジネスホテルの何ひとつ変哲ない一室だったが、ダブルベッドの存在が仕事の宿泊目的以外の用途に使われることもある実態を暗示している。

大橋が風呂に入っている間、黒木はベッドのふちに腰掛けて念のため携帯を確認した。時刻は23時すぎ、この時点で職場からの不在着信も留守電メッセージもメールもなかった。もちろん、桜井からの連絡も。

束の間、黒木は日付と時間だけが浮かび上がっている待ち受け画面をじっと見つめる。

自分は、桜井からの連絡を期待しているのだろうか。しかし連絡が来ていたとして、どうするのだろう。折り返すのか、放置しておくのか、それとも。

今大橋と居る、そう伝えたら桜井は何と言うだろう。

「呼び出しですか?」

声に振り向くと、いつの間にか大橋が備え付けのバスタオルを腰に巻いた格好で立っていた。

「いや」

短く答えて、黒木は携帯をベッド脇のナイトテーブルに置いた。入れ替わりに大橋が自分の二つ折り携帯を開く。髪を拭きながらカチカチと履歴を見ていたが、ほっとした表情で閉じ元の位置に戻すと黒木の隣に腰を下ろした。

「週末の夜は呼び出し多いんですよ。今日は珍しいです」

おそらく久々の休みなのだろう、その口調は嬉しそうだ。言われてみれば大橋と、ここまで長時間居るのは本当に久し振りな気がする。

「酒でも買ってくればよかったかもな」

軽口を返し、自分もシャワーを浴びようと立ち上がりかけた黒木の体はしかし、突然腕を掴まれ強くベッドに引き戻された。

勢いが余って倒れ込んだ体は起こす間もなく大橋の両腕に抱き込まれ、目が合う前に唇が塞がれる。先ほどと同様、激しさのない口付けは、少しずつ角度を変えながら吸いながら、時間をかけてより深いものに変わってゆく。

上がる息に任せて黒木も大橋の下肢に手を伸ばしたが、到達する前にやんわりと阻まれてしまった。桜井とは違う行為に意外な目線を返すと、心なしかの照れ笑いで目を伏せられた。こちらの攻めは額と唇にされた軽い口付けでうやむやにされ、その流れでさり気なく服を脱がされる。露になった首筋から肩、鎖骨と、ゆっくり這い降りてくる大橋の濡れた唇と舌に、時折体がすくんで吐息が漏れる。

やがて大橋は、舌先で胸の付近を激しく刺激しだした。敏感な部分に強めに歯を立てては疼きを癒すかのように舐め、吸っては軽く歯を立てを、緩慢かつ執拗に繰り返す。

ひときわ強く吸われたとき、予期せず上肢が反れて媚びたような響きの声を上げてしまった。咄嗟に我に返り、慌てて唇を噛み締める。

「そんな顔するんですね」

思わず背けた耳に、低く大橋が囁く。

「こっち向いてくださいよ」

髪を撫でながら顔を覗き込み、また唇を重ねてくる。すべてを味わい尽くすかのように深く蠢く舌に息を吸い込み意識を保って応える先、黒木の脳裏に桜井のことが浮かんできた。こんなときに桜井は、両手で顔を包み込み噛み付くように吸い付いてくるんだよなと、思いを馳せる。しかし同時に、今それを思い出しても何になるのだろうとすぐにそれを打ち消す。タイミングよく背中に腕を回してきた大橋に、黒木は記憶を振り切るようにきつくしがみついた。



きつく寄せた眉に大橋が心配そうに動きを止めたが、黒木は首を振った。どんなに長く指と液で慣らされても、体内に入り込まれたときの異物感は容易に拭うことができない。正面からであればなおさらだ。止めてくれたところで変わりはしないことを伝えたが、それでも大橋は動きを黒木の呼吸に合わせ、喉奥から呻きとも喘ぎとも似つかない声が漏れるたび髪を優しく撫でてくれる。

やがて納まったらしい感覚を得て黒木が肩の力を抜くだけの余裕ができた頃合いに、大橋が顔を寄せてきた。

「黒木さん」

頭を抱いて耳元で名を呼ぶ声は色を帯びているものの、ほんの僅かに息づかいが乱れているだけでこの状況下にしては場違いなほど冷静だ。

「好きです」

感情を無理に希薄にした、ただただ胸の内の事実を報告するような告白。

けれど単なる事実すら、受け止めて応えられるだけの確証が今の黒木にはない。

「好きです」

見上げた瞳に映る、抑えきれない眼差しで言葉を落とす大橋の頬を包み、黒木はその告白に口付けだけを返した。

自分の答えはこれしかないということを、明確に示すために。



携帯の振動音は着信かと思ったが、すぐに取らなかったところを見るとどうやらアラームのようだ。大橋が溜め息をついて枕元に自由なほうの片の手を伸ばす。時刻は午前2時。30分くらいは、うとうとできただろうか。

「時間切れなんです」

音を止め、黒木の頭から名残惜しそうに腕を引き抜きのろのろと起き上がって服を着替え始める。

「帰るのか」

黒木が問うと、大橋は着ようと手にしたワイシャツをじっと見つめた。

「実は、川崎さんに23時から3時の間だけ一切連絡しないでくれって頼み込んだんです」

川崎とは、今大橋と組んでいる40すぎの警部補だ。元新宿署の刑事で、竹の塚署の新設に伴い配属を志願したらしい。黒木は直接会ったことはないが、大橋いわく「安積さんと鑑識の石倉さんを足しっぱなしにしたような人」だそうだ。部下思いで職人気質だと、ときどき自慢される。

「黒木さんは気にせず休んでいてください」

気を取り直すようにシャツを羽織って大橋は着替えを再開したが、申し訳なさが先立って黒木もベッドから起き上がった。

軽く髪を手櫛で整え瞬く間に帰り支度を進める黒木の姿に、大橋は相変わらずですねと嬉しそうに笑った。



「また連絡します」

運転席から黒木が降りた助手席側へ身を乗り出し、大橋は窓を全開にする。

「今度は飯食いに行きましょう」

それからわずかに間を置いて、少しだけ寂し気な笑顔を見せて付け加えた。

「差しじゃなくても、構いませんから」

短い黒木の返答に片手を上げて応え、別れの挨拶をする。ボタンひとつで閉められた窓越しに、サイドブレーキを解除する仕草が見えた。

一度だけ短くクラクションを鳴らすと、大橋の車は有明JCTの方向へと行ってしまった。

車の姿が完全に消えるまでその場に立ち続けたあと、黒木は待機寮を仰ぎ見た。さすがに時間が時間だから暗い部屋が大半だが、シフト制の部署の交代時間が近づいていることもあり明かりが漏れている部屋も決して少なくはない。何とはなしに目を向けた、道路に面している桜井の部屋は真っ暗だった。

入口で擦れ違った何人かに挨拶をして3階の自分の部屋の前に行く。カードキーを差し込み暗証番号を押してノブを回そうとし、足下から漏れる光に気がついて黒木は眉を寄せた。



背後に感じたドアを開ける音に桜井は慌てて目を閉じた。さも読みかけで眠ってしまいました風を装ってみる。入口に背を向けてじっとしていると、上着も脱がずに真っ直ぐこちらに近づいてくる気配がした。気配、もとい黒木は屈みもせずに黙って桜井を見下ろしていたようだが、しばらくするとクローゼットのほうに遠のいた。服を着替えている衣擦れの音がしてすぐに、洗面台の水音がし始める。

シンクの貯め水が全部流れたタイミングで、桜井は大げさに伸びをして身を起こした。洗った顔を拭き終えた黒木と、目が合う。

「今何時なんですか」

本当は何度も携帯を確認していたからおおよその時間は知っているが、素知らぬ振りで聞いてみる。

「寝てたのか」

質問には答えず、黒木のほうが質問をしてきた。

「ええ。黒木さんが出掛けてからは本読んでたんですけど」

いつの間にか落ちてました、笑顔を見せて桜井は自分から携帯を確認する。

「もうこんな時間なんですね」

驚いた様子で桜井は時刻を告げたが、黒木は表情も変えずにそうだなと、いつものように同意を示しただけだった。


ずっと、大橋さんといたんですか?

二人っきりでどこにいたんですか?

車内ですか屋外ですか屋内ですか?

5時間近く何を話してたんですか?

実は話をしてただけじゃないとか?


聞きたいことが次から次へと喉から出そうになるのを辛うじて抑え、桜井は風呂に行く支度をする黒木に向かって、大橋は元気だったか、何でこっちまで来ていたのか、毒にも薬にもならない問いかけをする。

律儀に教えてくれる口調は淡々としていて、桜井が知りたい本当のところを見い出すことはできなかった。

「今度は必ず一緒に行きますから」

だから絶対に声かけてください、語調にわずかなねだりを混ぜて桜井はにっこり笑う。

「そうだな」

いつものように持ち忘れがないかを確認しながら黒木が答える。

「大橋もそう言ってたし」

予想外の伝言にうっかり意表を突かれた表情を出してしまったが、幸い、黒木は気がついていないようだった。


この部屋で寝てても構わないという言葉に甘えて、風呂に行く黒木を見送ったあと桜井はまた布団に転がった。気の向くままにころころと、体を左右に回転させてみる。

黒木と大橋がどこへ行って何をしていたのか、気にならないと言えば嘘になる。おそらく黒木に聞けば嘘偽りなく正直に話してくれるだろうが、その分たとえ桜井の考える最悪の事態だったとしても謝罪や弁解に類するものは一切しないはずだ。それならば、薮をつついて蛇を出さないほうがいい。

顔を埋めてうつ伏せ、桜井は最近寝慣れてきた枕と敷布の感覚に身を委ねる。「ここ」にこうして居られるのは今までもこの先も確かに自分だけだと強く己に言い聞かせ、今夜のことは忘れることにしようと心に決めて目を閉じた。


2011.3.16


# 2011.5.10 若干修正

# 2013.6.16 修正


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青海駅前にビジネスホテルはありません。

大橋の組んでいる川崎さんという刑事は架空の人物です。


以下は言い訳です。



黒木は、大橋のことは嫌いじゃないけれど桜井のことも未消化だし、大橋の気持ちが大きすぎて応えられませんごめんなさいという感じ。あと桜井とは現時点では「恋人同士」という感覚がないので今回のことを「浮気」とも考えてないです。むしろそう考えたら桜井の負担になっちゃうなと、明後日気味なことを考えています。

桜井は桜井で二人のことが気になるけれども自分自身で表向き割り切った関係を匂わせてしまったがゆえに、言うに言えない、策に溺れた状態です。

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