『休日』(東京湾臨海署安積班:桜井×黒木)




読みかけの本から顔を上げ、黒木和也は窓の外を見た。

いつの間にか日が落ちかけている。どうりで文字が読みにくいはずだ。時刻は15時すぎ、感覚としてはまだ真っ昼間だが、秋の日暮れは容赦なく早い。季節のうつろいを感じつつ読んでいた箇所に目を戻したものの、いったん意識してしまったために部屋の暗さが気にかかる。この状態で読み続けるのは少し辛い。

たたまれた布団によりかかった姿勢と表情は変えずに首だけ曲げて、黒木はすぐ隣で自分と背もたれを共有している桜井太一郎を見た。


桜井は、寝しなにかけてやった厚手のタオルケットにいつの間にかくるまって、体を「く」の字に曲げている。そんな格好の割には深く寝入っているようだが、さすがに明かりをつけたら目を覚ましてしまうだろう。

短い逡巡の結果、黒木はいったん本を閉じることにした。


休日のこの日、昼前ふいにやってきた桜井は、持参のビール2缶を空けてからひとしきり世間話をしたあと、窓際で日光を当てていた布団に身を沈めて、この部屋居心地いいですよね、ぼくの部屋まだ片付いてなくて、とかなんとか言いながら、気が付いたときには落ちていた。桜井が昨日、未明から夜中前まで聞き込みに出ていたことを知っている黒木は、起こさずそのままにしておいた。外出する用はないし予定していた読書の邪魔になるわけではないし。後者については完全に回避できなかったが、仕方がない。


本にしおり代わりの指を挟んだまましばらく、あまり寝やすくはない姿勢で眠っている桜井に黒木は、ここにいるのが村チョウこと村雨秋彦巡査部長だったらどうしたかなと何とはなしに考えた。


村雨は、桜井と組んでいる部長刑事だ。知識と経験に基づく細かい気配りのできる人だから、日頃のパートナーである桜井が寝落ちる前に察知して、部屋に戻って休めと言う気がする。きちんとした場所で休息をとることの利点と疲れを溜めることの害悪と、体調管理とは何か、普段からどうすべきかを説きながら、選択の余地なしに桜井を自室まで連れて行くに違いない。仮に寝入られてしまったとしても、布団を敷いてやってから、せめて横になるようにと促すはずだ。

おそらく、そういった他人のことも思いやれる几帳面さが、桜井が村雨を敬愛している理由のひとつなんだろう。もしかしたら、一番惹かれているところかもしれない。

桜井はよく「黒木さんは几帳面なところが村チョウと似ている」と言う。でも自分自身の几帳面さはどちらかといえば個人的な規律ありきのものだから、やっぱり村雨のそれとはだいぶ違う。なのにどうして、桜井はそんなことを口にするのかわからない。勘繰りではなく、純粋な疑問として。


ひとつ大きく伸びをしてから、黒木はもう一度時計を見た。夕飯には早すぎるし走りに行くにも中途半端な時間だ。かといって本はもう読めないし。

考えを巡らせながら、黒木は瞼の重さを感じて目を閉じた。



しばらくの静寂の後聞こえてきた規則正しい寝息に、桜井は薄く目を開けた。部屋は暗くなりかけている。たぶん15時半すぎくらいだろう。

タオルケットから這い出、そっと身を起こして隣を見ると、黒木は読みかけの本を膝にうつむいて眠ってしまっていた。

思わず、桜井は派手にため息をついた。せっかくの休みだったのに。完全に、タイミングを逃してしまった。

ビールを飲んでから落ちたのは本当だった。だけど睡眠が続いたのはわずかな間。一回目が覚めてからはほとんど眠ってはおらず、実はときどきなんとなーく薄目を開けさえもしていた。真剣に文庫本を読みふける横顔を見ながら、何読んでるのかな、自分と目が合わないかな、何で全然気付かないんだろう、いっそ起こしてくれればいいのに……と、あれこれ頭に浮かべては浅く眠るを繰り返していたのだ。


下から覗き込んで顔を近づけても微動だにしないところをみると、黒木は相当深く眠っているらしい。当直明けのはずなのに、昼前にはすでに日課の筋トレを終えていて、一緒に昼食を済ませて自分が落ちたあとはずっと本を読んでいたから、今熟睡しているのは当然といえば当然か。夕飯どきには起きるつもりなのだろうが、それにしたってまだ2時間弱はある。一瞬起こそうかとも考えたが、せっかく気持ち良さそうに眠っているのだし、自分が起きたからって起こしたら変に思われるかもしれない。そもそも起こしたところで何と言えばいいんだか。


しばらくこと細かに頭を悩ませていた桜井だったが、唐突にふと思い立ち、眉間の皺を緩めた。

膝を折りしゃがんだ姿勢になって、じっと、黒木の寝顔を見つめる。


黒木は普段、須田三郎という部長刑事と組んでいる。須田は、刑事としては心身ともに一風変わった特徴の持ち主で、どう見ても警察という職業についているようには見えない。だが、黒木の須田への尊敬度合いは端から見ると全肯定と言っても過言ではないくらいで、いつも半歩下がって子細漏らさず話を聞き、行動を共にし、必要なときにだけ的確なフォローをしている。須田もまた黒木には一目置いていて、歳も階級も須田のほうが上なのに対等に、時には全面的に信頼を寄せるかたちで接している。お互いを理解して相手にないものを補い合う理想の組み合わせだと、桜井も常日頃感じている。

でも、その須田でさえ。黒木の、徹夜張り込みの仮眠なんかではなく休日の安らいだ寝顔をこんな間近でまじまじと見る機会なんかないはずだ。

ちょっと、いや、かなり優越感に浸りながら、桜井は念のため膝に顔を埋めてから目と口元を弛める。


多忙を極める刑事の休日は貴重で、体を休めたり私事の雑務をこなしたり勉強したり、やらなきゃいけないことはたくさんある。だけどたまには、こんな贅沢な時間の使い方も悪くない。

再び布団に背を預けて桜井は、タオルケットを共有してから慎重に黒木に体重をかけた。互いの肩が触れ合うこの体勢なら、もし仮に自分が眠ってしまっても、たぶん起こしてもらえる。


夕闇迫る臨海署の独身寮、通称待機寮に、束の間緩やかな時間が流れている。

長く伸びやかな汽笛の音と海鳥が遠く鳴く声が、港のほうから聞こえてきた。


2010.12.18

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