『相違』(東京湾臨海署安積班:桜井×黒木、須田)


脱ぎ散らかした服に手を伸ばし、下着とTシャツを身につける。そのまま起き上がって帰るのかと思いきや桜井は、スマートフォンに目覚まし代わりのアラームを設定し、ぽんと黒木の枕元に置いた。
おやすみなさいと言って電気スタンドを消し再び布団に潜り込む姿に、まだ日付の変わる前だから部屋に帰ってちゃんと休んだほうがいいんじゃないかと口に出しかけた黒木だったが、ここ最近の事情を考慮して就寝の挨拶に短い反応を返すに留めた。

黒木和也と桜井太一郎の勤務先、東京湾臨海署の所轄内では、夏の終わりあたりから二輪車両の盗難が頻発していた。当初は窃盗犯系を中心に事件を追っていたのだが、ある日、実行犯ではと目星をつけていた組織の人物が、暴行の跡のある溺死体で発見されたことがきっかけで、強行犯からも捜査に人員を、それも巡査部長レベルの人間を多めに割いてほしいという依頼が出た。安積剛志警部補率いる第一係からは巡査部長の村雨秋彦と水野真帆の2名が、相楽啓警部補率いる第二係からは巡査部長1人と巡査1人の2名が、それぞれ一時的に強行犯係の仕事から離れ、窃盗犯係と共に活動することが決定した。およそ二週間前の出来事だ。それはすなわち、桜井が普段行動を共にし、刑事としても人としても敬愛しているという村雨と、今週いっぱいまともに顔を合わせていない事実を示している。
いつもと違う相手と組みつつも一日の終わりには所轄同士で顔を合わせられる他所轄との合同捜査本部とは違い、臨海署内の警察官のみで組織されているせいか、村雨と水野は別館に構えられた対策本部に詰めっぱなしで、本館にある強行犯の刑事部屋にまったく帰ってこない日がほとんどだった。黒木ですら毎日無人のデスク2つにどことない空虚を覚えるくらいだから、桜井にしてみれば言わずもがなだろう。
以前から桜井は事あるごとに、黒木と村雨は内面がどことなく似ていると評している。村雨の不在からこっち黒木の部屋にほぼ入り浸りなのは、普段以上に広がった心の隙間を似ている人間のそばにいることで埋め紛らわせたいからに違いない。そうでなければ、ただでさえ欠員が出て通常業務が忙しいこの時期、貴重な休養時間を狭い布団の共寝に使いたいと思うはずがない。
背中越しに聞こえ始めた寝息を耳に、黒木もまた、睡眠を確保しようと目を閉じた。

対策本部が発足してから三回目の週末、黒木の当直日であるその日の東京湾臨海署は、朝から活気づいていた。第一係の長である安積剛志警部補の話では、例の車上荒らしの捜査がいよいよ大詰めを迎えつつあるらしい。その空気は定時を過ぎ、深夜に近づいても変わらずで、署内は昼間に引き続いて事件解決が近いことへの期待と高揚感に包まれていた。
いつもの当直日に比べるとどことなく周囲が慌ただしくはあったが、環境にさほど左右されない黒木にとってそれで何かが変わるわけではない。人員不足ゆえ日中の出動が増えたぶん後回しにされた事務書類を、いつも通り一人黙々と片付けていた。
机の上のアラームが、23時を告げた。強行犯第一係のメンバーは、1時間ほど前に全員帰宅してしまっている。食べそびれた夕食をとる前にもうひと仕事するかと黒木がノートパソコンのキーボードに手をかけた矢先、刑事部屋のドアが開き安積係長と飲みに行ったはずの須田三郎部長刑事がひょっこりと顔を出した。
「お疲れさん」
忘れ物しちゃってさと言いながら柔らかい笑顔とともに部屋に入ってくる須田は体系も丸く動きも緩やかで、お世辞にも刑事らしい刑事とは言えない。でもそれが、この人の一番の取り得であり武器であり、同時に最も尊敬できるところだと黒木は常日頃から感じていた。
今日は久し振りにちょっとだけシノさんのところに顔を出したんだ、他愛のない世間話をしながらのんびり近づいてきた須田だったが、後輩でありパートナーである黒木の、仕事道具しかない手元を見たとたん諌めるように険しい顔をした。
「もしかして、また飲まず食わずで仕事してた?」
はい、という正直な黒木の返答に真面目にもほどがあるよと呆れつつ部屋を出て数分。須田は、署の一階に設置されている自動販売機から買ったらしい缶コーヒーを片手に戻ってきた。黒木の好みどおり無糖のブラックというところも、この部長刑事の観察眼と温かい人柄をよく表している。
自分はペットボトルのお茶を開けてから黒木の生真面目さに対してひとしきりお説教という名の心配を述べたあと、ふいに須田が真顔になった。
「そういえば例の、二輪車両盗難の件だけどさ」
手元のお茶をひと口飲み下し、秘密を共有する子どものようにぐっと声音を低くする。
「ウチコミかけようかって話が出てるみたいだよ」
向こうに詰めている村雨と水野の報告を聞いた安積係長によると、捜査を進めるうち、発見された死体は最近勢力を伸ばしつつある指定暴力団の末端構成員ということが判明した。さらに、殺人の容疑で引っ張ってきた複数の被疑者に対する取り調べもかなり順調に進んでおり、一連の盗難事件の背後にはその指定暴力団が絡んでいると断定できそうなところまで漕ぎ着けたという。そのため、ウチコミ、つまり強制家宅捜査を暴力団事務所にかけて、盗難関連の資料を押収してしまえば事件の早期解決になると踏んでいることを、須田は臨場感を交えつつ黒木に話してくれた。
「それで、シノさんの店を出ようとしたときちょうど、ハンチョウの携帯にウチコミ応援要請が来てさ。先方は黒木を希望してたよ」
「俺ですか」
「そりゃ、ウチコミありきなら俺や桜井よりお前だよ」
当たり前だろと須田が笑う。署内でお前の機動力と俊足を知らない奴なんかいないよ、と。
「わかりました。当直が明けたらすぐに向かいます」
「それは大丈夫」
黒木の反応を予想していたかのように、須田が言った。
「応援には桜井を寄越すって、ハンチョウと決めたから。明日の朝いちで桜井と向こうに伝えるよ」
「いいんですか」
「うん。村チョウの話だと、ウチコミかける意味ないんじゃないかって話もあるみたいでね」
いわく、そもそもウチコミ案が出たのは取り調べを受けている被疑者たちが殺人についてはあらかた認めた反面、窃盗についてはなかなか口を割らなかったからなのだが、ここにきて窃盗のほうも犯行を認める素ぶりを見せてるらしい。実行犯殺しだけでなく窃盗事件に関する自供をも得られれば、大規模なウチコミの必要なく事件解決に向かえる可能性は十分にある。
「もしそうなったら、マル暴と窃盗犯だけでこと足りるってわけ。でも、とっとと大勢でカチ込んで証拠を押収しちまえって意見もあるからには応援要請を無視するわけにいかないだろ? だからムラチョウと水野も交えてハンチョウと相談して、黒木は非番だから出せないけど応援の人員として桜井に行ってもらうことにしたんだ」
「ですが、桜井まで向こうに行くとなるとこっちが手薄になりませんか」
やっぱり休まず登庁しますよと言いかけた黒木を、須田が大丈夫だからと笑って止めた。
「明日からムラチョウがこっちに復帰することになってるから。黒木は気にせず休んでいいよ」
確かに、事実上のナンバーツーである村雨が戻ってくるなら人員不足の心配だけでなく安積班の機動力に問題はない。当直明けの部下が休めるようにという、上司たちの気遣いもありがたかった。
けれど。
ふと、黒木はここ数日の、寂しさを紛らわすように肌を合わせにくる桜井の様子を思い出した。せっかくムラチョウが戻ってくるのに入れ違いになることを知ったら、仕事だからとわかっていてもがっかりするのではないだろうか。入れ違ってしまうのはほんの数日の間だけれど、もし可能なら自分のできる範囲で少しでもその延長をなんとかして短くしてやりたいと思ってしまう。
「須田チョウ」
さり気なさを装ったつもりの呼び止めは、黒木の予想以上に強い調子になってしまった。帰るつもりで椅子から立ち上がろうとした須田が驚いた様子で動きを止める。
「どうしたの」
「応援、自分が行きます」
「へ?」
滅多に意見を言わない無口な後輩の唐突な提案とその内容の両方に、須田が目を丸くした。発言の意味を問われる前に黒木は言葉を続ける。
「もともとウチにしてみれば非番で1名の欠員ですから、俺が向こうに行きます」
「いや、それは違うよ。非番は非番だよ、ちゃんと休まないと」
「仮眠をとれば大丈夫です。それに、ムラチョウが戻ってきてなおかつ桜井が残れば、明日は予定より人員が増えますからここ数日の人手不足で溜まった事案も解消できます」
「そりゃそうだけど……」
自分は大丈夫です。再度表明した黒木を前に、須田は眉間に深い皺を寄せてむっつりと腕を組んだ。そのややもすると大げさな素振りは、須田の心中そのものを表そうとしていることを黒木は知っている。捜査の行方と部署の状況に加えて、後輩の体調を一生懸命考えてくれているのだろう。
難しい顔をして、しばらく。須田が、ふいに眉間の皺を解いた。それは時折見せる捜査推理中の大仏のような顔ほどではないが、須田が何がしかの結論に達したことを意味する。
「やっぱりダメだよ」と言われるか「わかったよ」と言ってくれるか。長年の付き合いからどちらの回答も十分あり得ると身構えた黒木だったがしかし、須田から発せられたのはまったく違うものだった。
「お前は、それでいいの?」
その、どこかで聞いたことのある問いと目の前の須田の静かな眼差しに、黒木は瞬時に返す言葉を失った。
そうして、辛うじて目線を逸らさずにはいられたものの、単なる非番返上の確認にしろもっと奥底にあるものを指しているにしろその返答は一つなはずなのに言葉に詰まってしまう事実について、少なからず動揺を覚えていた。
「ごめんね、困らせるつもりじゃなかったんだ」
ごめん、黙ったままの黒木にもう一度謝罪をしてから小さく頷くと須田は、応援の件は俺からハンチョウに話しておくよと言いながら優しいため息をついた。
「本当にお前くらい真面目な奴、見たことないよ」


翌日。当直引き継ぎ後、2時間の仮眠休憩を終えた黒木が二輪車両窃盗捜査本部に合流しようとした矢先、被疑者複数人から自白が取れたという吉報が入ってきた。結果ウチコミはマル暴と窃盗犯のみで行うこととなり、非番返上ならぬ応援返上となった黒木は当初の予定どおり非番として待機寮に戻ることになった。
「黒木」
刑事部屋を出た黒木の背中を、扉から顔だけを出した須田が呼び止めた。
「昨日、ごめんな」
「すみません、自分も無理を言いました」
「黒木が謝ることじゃないよ」
それから須田はわずかに間を置き、いったん下げた目線を再び黒木に向ける。
「お前の真面目なところは好きだけど、もうちょっと自分のために振舞ってもバチはあたらないと思うよ」
そう言っていたずらっぽく笑うと、須田は「ゆっくり休めよー」という労いとともに刑事部屋の扉を閉めた。
「………」
もうちょっと、自分のために。
ふっと、肩の力が抜けた。須田の観察眼と勘、そして深い優しさに触れた経験は数え切れないほどあるが、改めてその凄さを実感する。あの人には一生かなわないだろうなと思いながら、黒木は寮に向けて歩き出す。
今日は村チョウが戻ってくるからお互いが非番のときは恒例になりつつある食事はなしのつもりでいた。でももし万が一、誘いの連絡がきたのなら。
桜井に、外ではなくて部屋でゆっくりしたいと伝えるだけ伝えてみよう。長い捜査の出口に明るい空気漂う署をあとにしながら、黒木はそんなことを考えていた。




2019.4.29

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お読みくださりありがとうございました!
少しだけ前向き黒木。

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