『関係』(東京湾臨海署安積班:桜井×黒木)




安積係長に言わせると、桜井は「今時の若者」なんだそうだ。

自身のことを表に出さず合理的主義な「若者」が時々わからなくなるって、極たまに冗談めかしてぼやいてるんだよ。いつだったか、須田チョウがそう教えてくれたことがある。

あのとき須田チョウは笑っていたからその場では口に出さなかったけれど、黒木は係長の気持ちがよくわかる。


臨海署の独身寮、俗にいう待機寮が新しくなり、その引っ越しが終わったあたりから毎日雨が降っている。梅雨を迎えたばかりだから仕方がないとはいえ、連日のじめじめとした空気は環境にあまり左右されない黒木和也をも相当に参らせていた。まだ住み慣れないこともあり部屋に戻ってきてもあまりくつろぐことができない。例年より雨が多いと耳にはしているが、この湿度は異常だ。

冷房の風は好きじゃないし、今年こそ暇を見つけて性能のいい除湿器を買うか。布団に仰向いて半裸のまま黒木が思考を巡らせていると、扉の開く音がするや否や、顔の上にTシャツが降ってきた。

「そんな格好じゃ風邪ひきますよ」

どけたTシャツの向こうにいたずらっぽく笑う桜井太一郎が見えた。首にかかったタオルで髪を拭き、躊躇なく冷蔵庫を開けて黒木が買い置いていた缶ビールを取り出す。

「風呂、すごく空いてました。今のうちに汗流してきたらどうですか?」

短く同意を返し、起き上がって湿ったTシャツをハンガーにかけてやる。ふと感じた視線に振り返ると、ずっとこちらを見ていたらしい桜井と目が合った。

「ホント、几帳面ですよね。村チョウみたい」

缶ビールに冷えた指先が伸びて、背中から脇、胸板を滑る。

「身体の線は黒木さんのほうが上だと思いますけど」

ぼくも腹筋と腕立て始めようかな。呟いて再び絡みついてきた腕と密着した肌の体温から察するに、桜井は黒木を風呂に行かせる気が失せたようだ。唇を割ってきた舌に応えながら、黒木は空いた洗い場を心の中で諦めた。


桜井が自分の部屋に出入りするようになったのは、神南署に移ってすぐだったか臨海署に戻る寸前だったか、黒木はよく覚えていない。

とにかく、お互い酒が入ってはいた。二件めを出たところで部屋で飲み直しませんかと誘われ、ビールを2、3缶空けた後、わずかに訪れた会話の隙間に桜井の顔が近づいて唇を塞がれた。さして驚かなかったのは、自身の経験から、世の中にはそういう趣向の人間がいて別に珍しいものではなく、生活に支障がない限り特に拒むべき事柄ではないと考えていたからだ。だからおそらく、唇を重ねてきたのが須田でも安積でも拒みはしなかっただろう。拒むとしたら既婚者の村雨の場合くらいだ。法律上のパートナーがいる人間とそういう行いをすることは不貞行為になるから。

抵抗がないことを了解ととったのか桜井は、軽めだった口付けを強い吸い付きに変え、ひとしきり絡んで離れてから熱っぽい息で耳に囁いてきた。

「服、脱がせてもいいですか?」

黒木の答えは、好きにしていい、だった。

その結果、今に至っている。

今時の若者は他人に深入りせず、気楽な付き合いを望み、人間関係を合理的に捉える傾向がある。係長がそう言っていたと、須田チョウは言う。

深入りしない、軽い付き合い。割り切った関係。

気持ちを通じ合わせるようなこともなく、愛を交わすわけでもなく、用が済んだらそれぞれの場所に戻る。

まさに、桜井と自分の関係だ。

ただ、ときどき、自分は桜井ほど割り切れていないんじゃないかと思うことがある。

中澤京子が勤務する病院の前を通るときはつい目を向けてしまうし、桜井の他愛ない話の端々に多々登場する、本人曰く「人としても刑事としても尊敬していて既婚者なのが残念な」村雨の存在に嫉妬を感じたことはない。何より、桜井を独占したいという欲求が全くない。

けれど共に過ごす時間が一切なくなってしまったら、おそらく寂しいと感じるに違いないという自覚はある。現に、黒木は仕事と体調に支障のない限り桜井を拒んだことは一度もなく、当面それを変えるつもりはなかった。たとえそれが、この先の自分にとって正しい選択ではなかったとしても。


風呂から戻ってきたら、既に桜井はいなかった。珍しいことではないが、今夜は雨と部屋の不馴れとが相まって狭い空間が妙にがらんとして見える。

とりあえず流しに放置された空き缶を洗って逆さまにしてから、少し間をおいて黒木も缶ビールを開けた。



翌日、朝いちでとりかかった書類書きがいち段落したころ、電話を切った安積剛志係長に呼ばれた。

「例の引ったくり犯がまた未明の舎人駅付近に出たらしい」

例の引ったくり犯――先週末、黒木が聞き込みを担当した案件だ。ここ数日都内で数件出没している引ったくり犯で、スクータで近づきターゲットを切りつけて持ち物を奪うや否やまたたく間に逃げてしまうのが犯行の特徴だ。マスコミは「切り裂き引ったくり犯」という安直な名前をつけて断続的に報道していた。

安積が「また」と言ったのは、最初の出没が足立区を走る舎人ライナー沿線だったからだ。その後、日暮里、上野、秋葉原、神田、新橋付近でも被害が出ており、お台場は7カ所目の現場になる。現在は広範囲にわたる点と手口が似通っている点から、組織立っての犯行と摸倣犯の両方の線で、所轄間で情報を共有し連携して捜査にあたっている最中だった。ただ有明駅前の路上で起きた今回の事例は、他の地区では真夜中もしくは未明に発生していた犯行が昼間だったことと、また、近くにある国際展示場で若者向けの催しものがあったため比較的大勢の人間がその場にいたのにもかかわらず、決定的な証言は得られていない点が違う。加えて、救急車を呼ぶのが遅れた関係で、被害者は未だ入院生活を余儀なくされていることも他の事件との大きな差だった。

「すまないが、資料を持って行ってきてくれないか」

安積から先方の担当者が書かれたメモ書きを受け取り、黒木は出かける準備を始めた。

「真っ昼間の犯行なのに手がかりが少ないなんてなあ」

臨海署に通報があったその日は非番だった須田三郎巡査部長が、支度する黒木の前で眉間に深い深い皺を寄せて嘆く。

「周りにいた人たちは気にも留めなかったってことだろ? なんだか悲しくなっちまうな」

「我関せずなのは土地柄じゃないか」

同じく巡査部長の村雨秋彦が書類を書く手を止めずに応えた。

「でもさ、少しは、こう、何かしようって思ってもよくないかな? 通報するとか、助けを呼ぶとか。いつもより人も多かったのに」

「多かったのは若い連中だろう。あのくらいの年代はとくに面倒ごとにかかわりたくないんだよ。通報でもしてみろ、その時点でその場に足止め確定だぞ。署で詳しく話を、なんて言われた日にはせっかくのイベントで遊ぶ時間がなくなるととでもかんがえるんだろう」

「そりゃそうなんだけど……」

事実に基づいた指摘を終えた村雨はまた書類仕事に戻ったが、須田は同意の呟きはしたもののまだ憂いの表情を変えていない。実に対照的な二人の部長刑事の所作は、安積班お決まりの光景だ。


若い連中は我関せず、か。


出掛けに黒木が目の端でとらえた桜井は、世間話など存在しなかったかのように黙々と書類仕事を片付けていた。



管轄内で引ったくり犯の最初の犯行があったため、捜査の中心となって情報を集めているのは都内屈指の多忙な署、竹の塚署だった。竹の塚署は、足立区周辺の犯罪率の高さから近年になって新設された警察署だ。その忙しさと慌ただしさについては黒木もよく耳にしていたが、実際に足を踏み入れると本当にこれが同じ警察の組織なのかと驚いてしまう。怒鳴り声、鳴り響く電話、行き交う人々、ひっきりなしに開閉するドア。臨海署とて決して暇なわけではないが、この喧噪を前にしては気後れするなというほうが難しい。

とりあえず担当者をと、黒木が目指す部署に向かおうとしたとき。

「黒木さん!」

周りの雑踏に負けないほどの大声に黒木が振り向くと、相手の険しい顔が笑顔に変わった。

そこにはベイエリア分署時代の後輩、大橋武夫が、ノートパソコンを紙のノートのように開いて持って立っていた。相変わらず、たたずまいだけは大人しそうに見える。

「引ったくりの件ですよね?」

そうだと答えた黒木に大橋は、担当者が別件で不在になってしまったが自分が代理を引き受けたことを告げた。

「臨海署の担当が黒木さんだって聞いたんで。せっかくですから昼飯でも行きませんか。ちょっと離れてますけどいい店があるんです」

開いていたノートパソコンを大橋が閉じた矢先、書類はまだかというかなりの怒気を大声が飛んできたが。

「たまには昼飯くらい食わせてくださいよ! 世話になってる先輩が来てんです!」

大橋はそれに負けないくらいの大声で相手を怒鳴り返していた。


案内されたのは店先に紺色の暖簾のかかった、こじんまりとして居心地の良さそうな小料理屋だった。大橋の行きつけの店だという。カウンター内にいる大将らしき男性はいかにも頑固一徹の職人という雰囲気で客の気配にもいらっしゃい、と告げたきり黙々と手を動かしていたが、大橋が短く声をかけるとわずかに顔を上げて表情を柔らげた。

昼飯時より少し前だったせいか、黒木たち以外に客はいなかった。大橋は一番奥、カウンターだけの店内で唯一向かい合って座れる二人掛けのテーブル席を確保すると和食弁当を2つ頼んだ。お勧めなんで、と付け加えてからよく冷えたおしぼりで手を拭い、手帳を開く。

「それで、今回やつの現れた場所なんですが」

言いかけて、黒木が眉間に皺を寄せたのを察したらしい。

「この店は大丈夫ですよ」

ちらとカウンターのほうを見る。しかし黒木はきっぱりと首を振った。

「問題行為だぞ」

「黒木さんのそういうところ、全然変わらないですね」

言葉の割にはあきれた様子もなく大橋が笑う。

「じゃあ、別の話題にします」

律儀に手帳をしまって少しだけ間を置くと、急に真顔になって大橋は黒木を真正面から見据えた。

「俺と連絡取ってること、桜井に言ってないのはどうしてですか」

予想外の切り出しに黒木が何で、と疑問を返すと、向こうは間髪入れずに言い返してきた。

「言えないような理由があるんですか」

聞き込みや取り調べのテクニックのひとつに、相手の質問に答えてはいけないというものがある。質問されたらあえて質問で返すのだ。今の大橋は口調こそ穏やかだが、まさにそれを再現していた。目にも力がこもっている。刑事特有の、威圧感を与える強い眼差し。

何故尋問されなければいけないのか黒木には大橋の意図がさっぱり掴めなかったが、向こうがそのつもりなら仕方ない。黒木も、大橋を鋭く一瞥してみせてから無言で運ばれてきた茶を飲んだ。


言ってないのはどうしてか。言う必要がないから言ってないだけで他意はない。

そもそも、桜井と大橋とはごくたまに時間とタイミングが合えば飲みに行く程度でそれほど親しくはなかったはずだ。大橋が異動になってからは話題に上ったこともないし、聞かれたこともない。だいたい、桜井に自分が誰と会ったとか飲みに行ったとか逐一報告する義務はない。大橋にそう伝えてもよかったが、口に出すほどのことでもないだろう。

ほどなくして、弁当が運ばれてきた。ぶりの照り焼きや刺身、煮物がきれいに詰められた重にどちらともなく箸をつける。妙な緊迫感漂うこんな状態でもおいしいと感じられるのだから大将の腕前は相当だなと、味噌汁をすすりながら黒木は思った。お台場と違う豊富な飲食店事情のなかで大橋が行きつけにしただけのことはある。

しばらく無言で食事が続いたが、沈黙に負けたのは大橋のほうだった。溜め息をついて箸の動きを止める。

「前、うちに帳場が立ったとき俺と桜井が組んだこと、知ってますよね」

黒木は頷いた。東京湾に上がった水死体の身元が足立区だったため竹の塚署に捜査本部が設置されたとき、桜井は大橋と組んで聞き込みをしていたのだ。桜井は大橋さん物静かだったのに変わっちゃってましたよと言っていたが、ベイエリア分署にいたころは新人だからと割り切って仕事のときにあえて個をあまり出さなかっただけで、変わるも何も大橋は前からこういう奴だ。根が真面目で控えめなのは本当だが、無口でも引っ込み思案でもないし、自分をその場に合わせる器用さは桜井の比ではない。

「あれがきっかけで桜井ともときどきメールのやり取りをするようになったんですけど、あいつ、他の人の話はするのに黒木さんの話題は一切出さないんです。だから、この間久し振りに会ったとき忙しそうだったけど黒木さん元気かって聞いたんですよ。そしたらすごい早さで返信がきたんです、今度は仲間外れにしないで誘ってくださいよって」

絵文字付きで。会話を切って様子を伺うも黒木に話し始める素振りがまだないことを悟るや、先を続ける。

「気にしてるんですよ、桜井。俺と黒木さんのこと。そうじゃなきゃあんな態度とらないでしょう」

再び箸を動かし出し巻玉子を口に運ぶ大橋から刑事の気配は消えていたが、今度は少しの苛つきが混ざった表情が現れている。

「あんな態度?」

「不自然なくらい黒木さんのこと話題にしないでこっちがふったとたん即レスなんて、俺に探り入れてんですよ」

「何のために」

「何のためにって、」

大橋がもどかしそうな顔をして口を開きかけた矢先、一瞬だけ派手な機械音と激しい振動音が響いた。気がついたときには大橋が携帯を耳に当てていた。名乗ったきり表情も変えずに余計な言葉を一切発さないのは仕事の電話、しかもわりと重要な案件ということを示している。

「了解です」

短く告げて大橋が通話を終えた。もう中腰になって財布を出し、店を出る姿勢になっている。

「すみません、すぐ戻らないと。今回の件は資料だけいただけますか。うちの資料はここに」

「大変だな」

上野署時代はそうでもなかったが、竹の塚署に異動してから夜でも昼間でも大橋と最後まで居られたためしはないなと思い返しながらねぎらいの言葉をかける。

「もう慣れました」

諦め言葉のおどけた口調は、余裕があることを示している。大橋も、やっぱり刑事でありこの仕事に誇りを持っているのだ。黒木にはそれがよくわかる。


黒木はこのまま臨海署に、大橋は竹の塚署に戻ることにして互いのマニラ封筒を交換する。別れる間際、大橋が黒木に向かって言った。

「近いうちまた食事に行きましょう」

わずかにためらったあと、意を決したように自分より少しだけ背の高い黒木を見上げる。

「できれば、差しで」

言ってから彼特有のはにかんだような笑顔を見せる。黒木の返答を待たずに踵を返すと、大橋は竹の塚署の方角のタクシーをつかまえて瞬く間に行ってしまった。



報告書をまとめて一通りの推敲が終わったタイミングで、須田と安積がかなり遅い昼飯から帰ってきた。安積が着席するのを待って席へ赴き、黒木は資料を差し出しながら目を通しておいた竹の塚署の情報を口頭でも報告をする。

「ご苦労だったな」

一礼して席に戻ったとき、報告書に目を落としていた安積が小さく声を上げた。

「大橋に会ったのか」

報告書に記入した、先方の担当者欄を見たのだろう。黒木は安積ではなく桜井のほうに目を向けそうになったが、辛うじて抑え、返事をするだけにとどめた。

「へえ、懐かしいなあ」

情緒をたっぷり含んだ声で須田が目を細める。村雨も、かつて組んでいた部下の名前に反応した。

「相変わらず忙しいんだろうな。元気にやってたか?」

「はい」

心なしか嬉しそうな村雨に答えるついでに、黒木は目端で桜井を見た。

桜井は、同じようにこちらを向いているものの流れにそって顔を上げたという程度で、場の雰囲気に合わせた表情をしているだけだった。



その夜、平日なのに珍しく桜井がビールを持って黒木の部屋にやって来た。

「いつも貰ってばっかりなんで」

次々に冷蔵庫に仕舞われる銘柄は、黒木好みのものと桜井好みのものが半々だ。

「そういえば今日、大橋さんの話題が出たじゃないですか」

空になった白いビニール袋を弄びながら桜井が言う。

「村チョウ、午後いっぱいは大橋さんの話ばっかりでしたよ。体調と仕事の心配から始まって、思い出話まで」

ふいに言葉を切り、相づちをうつ黒木のほうを見る。

「今度三人で飲みに行きましょうよ。ぼくも久し振りに会いたいです」

あ、須田チョウも誘いましょうか、思いつきに顔を明るくして桜井が同意を求める。黒木さんは前から連絡とってたんですよねとか大橋さんと会ってること教えてくれないなんてひどいじゃないですかとか、そういう類いのことは一切言われない。

たぶん、大橋は気にしすぎなのだ。ベイエリア分署から一人だけ神南署ではなく上野署に異動辞令が出たとき最初はだいぶ落ち込んでいたから、それが尾を引いて今村雨と組んでいる桜井に対して少し穿った見方になっているだけじゃないだろうかと黒木は思う。そして桜井のほうも、前に帳場で大橋と組んだとき気後れするとか何とか言っていたから、村雨に比べられないよう、かつての村雨のパートナーである大橋に密かなライバル心でもあるのかもしれない。


安積係長に言わせると、桜井は「今時の若者」なんだそうだ。

自身のことを表に出さず合理的主義な「若者」が時々わからなくなるって、極たまに冗談めかしてぼやいてるんだよ。いつだったか、須田チョウがそう教えてくれたことがある。

あのとき須田チョウは笑っていたからその場では口に出さなかったけれど、黒木は係長の気持ちがよくわかるしその考えは今後も変わらない気がする。


「上野あたりがいいですかねー」

手元の携帯で嬉々として店の情報を眺める桜井に、黒木は大橋から差しで飲みたいと言われたことは黙っていることにした。

言ったところで「あっそうですか」で終わりだろうことは、十分承知していても。


2011.2.28

# 2014.2.1 微修正


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臨海署と竹の塚署は電車だと1時間半くらいかかります。

原作でもまた大橋出て欲しいです。

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