『師走』(東京湾臨海署安積班:大橋(竹の塚署)と黒木)




折り畳み傘のしずくをかるく揺すり落として大橋武夫は、コンビニエンスストアに入る前に、その裏手にある軒先で先ほど内ポケットに入れたばかりの二つ折り携帯を再び取り出した。開かず、横にあるボタンで表面の小さなディスプレイを無駄に光らせるのは、今朝から数回めに及ぶ。


年末、年の瀬、師走。クリスマスあたりまでは街全体が締めくくりへの慌ただしさに包まれていたが、今日30日、官公庁の御用納めを一昨日に終えた日曜日ともなると、どことなく諦めに似た落ち着きも漂い始める。しかしこのあたり、竹ノ塚地区の治安の悪さは、刑事に妥協という名の休暇をくれない。今回の張り込み応援要請もご多分に漏れず、帰寮後の風呂上がり、久し振りに今夜は寮の布団で眠れるかもと思った矢先だった。

非番返上には慣れている。真夜中でも天候が悪くても気温が低くても平気だ。しかし、それらが「年末」というオマケをつけていっぺんにのしかかってくると、普段は気にならない心の隙間を、つい、何かで埋めたくなってしまう。


ようやく携帯を開き、大橋はアドレス帳を呼び出して検索画面を表示させた。しかし、「く」と入力したその先へ、なかなか親指が動かせない。

大橋が声を聞きたい相手、黒木和也が強行犯の刑事として所属している東京湾臨海警察署は、毎年、管轄内にある東京ビックサイトでこの時期に開催される大きなイベントの警備を任されている。

おそらく今年も、かつて大橋もそうだったように、刑事課は地域課の手伝いに駆り出されただろう。すでに23時半を回ったこの時間、仕事そのものは終わっているはずだが、休養や睡眠を邪魔する可能性があることも理解はしている。

冬のはじめには飲みに行けたし、その後も何度かメールのやり取りもできた。今年はそれでもう十分だと納得したのに、あと1日で1年が終わる年の瀬ぎりぎりのこの時期にどうしても声が聞きたくなってしまうなんて、我ながらこの上なく未練がましいと思う。とはいえやっぱり、一言二言でもいいから、年が明ける前に黒木と言葉を交わしたい。


許された時間は、休憩を含む軽食買い出しの20分間。残りあと15分、眺めていた時計表示が変わる直前、なるようになれと大橋は、アドレス帳から手早く黒木和也を呼び出して通話ボタンを押した。


かけるのは1回、待つのは通常の半分の5コールまで。出なかったら電話もメールも年明け。折り返し連絡がない場合でも、三が日が開けるまでは自分からの連絡を我慢する。2、3秒足らずの間にそんなことを考えていると、3コールめが終わるか終わらないかのうちに呼び出し音が途切れた。

『はい』

落ち着いた声と同時に、華やかな喧騒が聞こえてきた。どうやら黒木は、刑事部屋や待機寮にいるわけではないらしい。

「すみません、今、大丈夫ですか? お邪魔だったらすぐ切ります」

予想外の展開に慌て、ひといきにそう言ってから名乗るのを忘れたことに気がついたが、黒木は問い返さないまま、気にしなくていい、と言った。その間も、どっと湧く笑い声や手拍子、お待たせしましたーという声が、遠くから途切れることなく聞こえ続けてくる。

「後ろ、賑やかですね。係の、忘年会ですか?」

「係の」を心持ち強くして尋ねたのは、そうあってほしい願望の表れだ。

『いや、須田チョウと軽く飲んでる』

ある意味では忘年会かな、付け加えの声音が心なしか朗らかなのは、酒のせいなのか黒木が尊敬して止まない須田部長刑事と二人きりだからなのか、たぶん両方だろうなと、電話の向こうの表情を想像しながら大橋は思う。

とりあえず覚悟していた名前とでなかったことに安堵し、大橋は改めて急な連絡を詫びた。

「あの、今日、例のイベントの警備でしたよね? 最近、テロへの警戒もあってうちの課もたまに似たような警備の助っ人指示が出るようになったもんですから、参考にできればと……」

咄嗟に出た嘘としてはなかなかだと自分を褒めたい反面、もうちょっと砕けた会話ができないものかと自分にがっかりもする。

そんな大橋の気持ちにまったく気づいていないだろう黒木は、後輩からの質問について、今日の警備の所感と事実と今後の展望を、傍にいるであろう須田に確認を取りながら、差し支えのない範囲で教えてくれた。

「ありがとうございます」

他に聞きたいことはという申し出に、そうですねと言いながら大橋は折りたたみ傘を持った手の腕時計を見た。もう少し余裕があるかと思ったが、すでに休憩時間の半分を消費してしまっていた。

「すみません、実は今、張り込み中の休憩で」

そろそろ戻らないとまずいんです、大橋の状況に対し、そうなのかという驚きのあと黒木は「お疲れさん」と、いつも通りのねぎらいをかけてくれた。その間、遠くから須田の、今度飲みに行こうなー、体壊すなよーといういたわりが聞こえてきて、少しだけ里心が刺激されてしまう。

「ありがとうございます。須田チョウにも、よろしくお伝えください」

そうして望郷の勢いのまま、大橋は一番伝えたい言葉を告げた。

「また連絡します」

『うん。じゃあ、また』

最後はお互い年末の挨拶を交わして、わずか5分足らずの通話は終わった。


片手で閉めた携帯の硬い音のあと、大橋はひとつ息をつく。


じゃあ、また。


それは会話を終える際の典型ではあるけれど、黒木が再会を約束するその言葉を選んでくれたことが、大橋はとても嬉しかった。

次に会えるのがいつになるかはわからない、冬の間か、春先か、夏や秋になるまで会えないかもしれない。それでも、次に繋がる希望はある。

胸の内ポケットに仕舞った携帯に一度だけ手を添えてから、大橋は明るいコンビニエンスストアの中に入って行った。



2017.12.26

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