『煙草』(東京湾臨海署安積班:大橋(竹の塚署)と黒木)
スーツの内側にある胸ポケットを探って煙草を取り出すと、目の前にいる黒木和也の表情があからさまに険しくなった。その様子はいつも大橋武夫に、かつて所属していた東京湾臨海署安積班のメンバーには今も変わらず喫煙者がいないことを教えてくれる。
数年前東京都千代田区で開始された「歩き煙草禁止条例」に端を発した禁煙の風潮が、首都圏の市区町村に派生・浸透してずいぶんになる。特に23区内の公共機関では、市役所や公民館はもちろん、一般人の出入りする敷地内は全面禁煙という警察署もかなり増えてきた。しかし、ストレスが多い環境にさらされている警察官そのものに、禁煙が浸透しているとは言いがたい。
かくいう大橋も臨海署時代は他の班員と同じく非喫煙者だったが、もともと喫煙に悪感情があるわけではなかったため、上野署に異動になったときから周りの影響もあって煙草を口にするようになった。対して目の前にいる黒木は、中学高校時代に中距離走の選手だったせいか、喫煙者ゼロの刑事集団である安積班の中でもとりわけ、喫煙行為に激しい嫌悪を示していた。
「少し強すぎるんじゃないのか」
開けたばかりの紙箱の側面に書かれた、巷に出回るなかでも比較的高いとされているニコチンとタールの含有量に黒木が苦言を呈す。
「もっと軽いのにしたらどうだ」
「吸ってたら同じですよ」
拡散しないよう足元に向けて煙を吐きながら、大橋が反論した。
「それに、軽いやつは味がいまいちで」
「ならせめて、量を控えろ」
間髪入れず、黒木はまだ皺のない箱を手に取り、ばしりと大橋の目の前に置いた。
「この時間に買ったばかりなのは、昼間に相当吸ってたからだろう」
普段は人の趣味嗜好にとやかく口を出さない黒木にしては珍しく、語調も目つきも厳しい。そんな、同じ職場に居た頃から変わらない生真面目な先輩の様子に、大橋は心の中でつい表情を緩めてしまう。
「はい、そのとおりです」
罪を素直に認めて大橋は、ひと吸いで煙草を短くすると傍にある灰皿の上で丁寧に揉み消した。
居住まいを正して深々と頭を下げる。
「これで勘弁してください」
“尋問”に対する大げさな仕草を見た黒木が、これまたわざとらしく息をつく。
「今日はもう吸うんじゃないぞ」
作り口調とは真逆の優しい苦笑に、大橋もまた顔を上げていたずらっぽい笑顔を返した。
互いの勤務地からの距離を考慮していつも利用しているこの居酒屋は、席と席の間にきちんとした仕切りがあり、他人の目線と雑談が気にならない造りになっている。加えて、酒よりも蕎麦のほうに力を入れているせいか、週末の19時前後という時間帯でもまだ客の数が少ない。特殊な業種についている自分たちが、そこそこ落ち着いて話す空間を確保できる貴重な店だ。
「最近どうなんですか、黒木さんとこは」
運ばれてきた中ジョッキを軽く持ち上げ、大橋が言った。
「うちは相変わらずです」
大橋の所属している竹の塚警察署がある地区は、都内のなかで一、二を争うほど犯罪発生率が高い。近隣の綾瀬警察署、西新井警察署の所轄と併せて、犯罪捜査の最前線と称されている。
「白書の数字は減少傾向にあるなんて、まったく信じられません」
一昨夜も寝入りばなを叩き起こされたと言う大橋の真顔に、ジョッキに口をつけながら黒木も同意の頷きをする。
「確かに減ったっていう実感はないな」
「ホントですよ。まあ、深く考えても仕方ないんで目の前のことを片付けるしかないんですけど。そういえばこの間……」
一般人も出入りする場ゆえにはっきりとした単語は使えないものの、簡単な仕事の情報交換と近況報告が始まる。
ほどなくして、混み始めた店のざわめきと回り始めた酒の効果が相まって、話の中身はお堅い内容から下らない雑談へと変わっていった。大部分は大橋の発話に黒木が相槌を打つかたちとはいえ、会話そのものが途切れることはなく、穏やかな時間が流れていく。
互いの所轄が変わっても細々と催されているこのささやかな二人きりの飲み会は、いつまで続けることができるのか、以前と変わらずに接してくれる目の前の想い人の存在に、大橋はいつもそう思う。顔と態度に出さないだけで本当は迷惑なのかもしれない、時間のやり繰りに無理をさせているかもしれない。何より、黒木の隣にはもう別の人間がいるのだから、こういう場に誘うのはやめたほうがいいと頭では理解しているのに、つい、飲む約束をとりつけてしまう。
せめて、次に会うときは三人にしませんかと提案しようと毎回考えているのだが、今日もまた、そう告げるタイミングを掴む前に、机の上の携帯電話が派手な音と振動を立てて鳴ってしまった。
「すみません」
早口に断りを入れて通話を開始する、案の定、着信は大橋の職場である竹の塚警察署強行犯第二係からだった。
「30分ほどで向かいます」
短い通話を終え、時間を確認して大橋は溜息をついた。
「まだ宵の内なのに路上でコロシとか、どうなってんすかね、うちの地域は」
改めて所轄の治安の悪さを嘆く大橋に、お疲れさんとねぎらいの言葉をかけながら自らも帰り支度を始めた黒木だったが、ふと思いついたように大橋のほうを見た。
「次はもう少しそっちに近い店にしないか」
何なら竹の塚に出向いてもいい。そう言ってくれる黒木の提案はおそらく、同じ刑事としての経験に基づく、呼び出しから現着への移動時間を気にしてくれてのものに違いない。しかし大橋は、礼は述べつつも照れ笑いとともにきっぱりと首を振った。
「時間がないのはお互い様ですから、ここで十分ですよ。それに、」
言葉を切り、立ち上がってジョッキのビールを飲み干す。
「黒木さんには、待ってる奴がいるでしょ」
努めて軽い調子で笑うと大橋は、代金を机の上に置くや否や、黒木の反応を待たずに早足で店を後にした。
:
大橋が現場に到着したとき、同僚たちはすでに現場周辺のあちこちで、回転灯の赤い光に照らされながら状況見聞の意見交換をしたり機動捜査隊や発見者に話を聞いたりしていた。鑑識の作業も終わっているようだったが、死体がまだ引き上げられていないところを見ると、初動捜査にはすべり込みで間に合ったらしい。
「悪かったな、当直明けに」
声のほうを振り返る、強行犯第二係の長である川崎幸三警部補が、大橋の姿を認めて近づいてきた。
「出先だったんだろ? なんか約束があったんじゃないのか?」
「大丈夫です。それより、状況は……」
そう言って大橋が胸ポケットから手帳を取り出した拍子、ぱさりと煙草の箱が足下に落ちた。
「なんだ、煙草変えたのか」
大橋が拾う前に箱を手にとった川崎は、パッケージをひと眺めしてから商品名の平仮名を上にして大橋に手渡す。
「すいぶんきついのにしたな」
「あ、いや、変えたわけじゃないんです」
受け取り、大橋はその銘柄に視線を落とした。
「いつもは、違うんですけど」
そう、いつもの自分は。
上野署にいたころから、ニコチンもタールも軽い銘柄を、半月くらいでようやく吸い切る程度だ。味にこだわりもないし、ヘビースモーカーでもないし、1日2日吸わなくてもまったく困らない。それなのにわざわざ、待ち合わせ前に強い銘柄の新品を一箱買ってまで目の前で吸ってしまうのは、そうすることでまだ自分が黒木に気にかけてもらえていることを確認できるからだ。多分に子どもじみていることは、十分自覚しているのだけれど。
箱を見つめたまま動きを止めた大橋に、川崎が声をかけた。
「きついのに馴れるとやっかいだぞ」
「そうですね」
その言葉に頷き、ポケットに煙草の箱を仕舞う。
「当分、吸わないように気をつけますよ」
自分自身にその決心を言い聞かせるかのように、大橋はまだ本数の残るそれを手の中で強く握りつぶした。
2013.9.17
# 2013.9.18 微修正
----
安積班全員煙草吸わない説は、喫煙シーンがないことからの推測です。黒木は前から煙草嫌いそうだなあと思っていたのですが、ランティエ2013年10月号の短編に書いてある堅物ぶりからするに、度を越えた嫌煙家なのではと妄想しています。
東京都23区内の公共施設および警察署の大半が全面禁煙なのは憶測ですが、留置所全面禁煙などが実施されているようなので、もしかしたらすでに庁舎全部禁煙になってるかもしれません。