『過渡』(竹の塚警察署、大橋)




部屋にたどり着いたとたん、力が尽きた。

かろうじてスーツ上下とワイシャツ、靴下を脱ぎ捨てた大橋は、敷きっぱなしの布団にばったりと倒れ込んだ。下着とタオルケットだけで高熱からくる悪寒を凌ぐのには無理があるが、冬用の部屋着と毛布を引っ張り出す気力も体力も残っていない。ついさっき飲んだ薬が効くまではこの装備で耐えるしかなさそうだ。


うっすらと喉の痛みを自覚したのは昨晩遅くの就寝時。起床後もなくならない違和感を無視して、通報の対応がてら聞き込みの準備やら溜まった書類の作成やらと慌ただしくしていたら、あっと言う間に体の節々が痛み出して座っているのも辛くなってきた。

大橋が刑事として所属している竹の塚警察署は、東京都内において犯罪発生率ナンバーワンの地域にある。連日連夜目の回るような忙しさで休む時間など微塵もないのだが、幸い、刑事課強行犯第二係の長としてチームをまとめている川崎幸三警部補は、警察官も人間だということを十分理解している上司だった。書類を提出に来た大橋を一目見るなり確認捺印の後、「医務室に行って直帰」という新たな業務命令を下してくれた。


今日は午後いちで出てくる予定の鑑識結果をもとに遺留品の販売店へ足を向けがてら放火容疑のある関係者周辺への聞き込みと、ようやく解決した強盗事件関連の書類を書き上げ、最近頻発している不審者に関する住民からの情報を川崎に報告するつもりだった。やりたいこともやらなければいけないことも山のようにあって、寝込んでいる暇などないのに。

そんな己のふがいなさを嘆きながら悪寒と間接痛と戦うなかで大橋はふいに、刑事になったばかりの年にもひどく体調を崩して寝込んだことを思い出した。


あれは東京湾臨海警察署刑事課強行犯係、通称ベイエリア分署安積班に配属された最初の夏。後輩の桜井太一郎が配属される前、まだ自分がチーム内で一番の下っ端だった頃だ。

前夜からの不調をおして出勤したら、組み相手である村雨秋彦巡査部長に開口一番、眉間の皺と共に今日はもう帰って寝てろと言われた。刑事たるもの、この程度で業務に穴を開けられないという青臭い理由から、大丈夫ですと食い下がったのだけれど、健康管理も大事な仕事だと諭され、医務室に連れて行かれた。

体調不良程度で欠勤しろなど、どれだけ自分は戦力外なんだと落ち込んだが、そのあとかなり熱が上がって結果的に丸一日寝込んでしまったことを考えると、朝一番で帰寮を言い渡した村雨の判断は正しかったことになる。もし無理をしていたら、一日の欠勤どころでは済まなかったかもしれない。

そして村雨が即座に的確な判断を下せたのはおそらく、常日頃から部下の様子を気にかけている結果に違いないのだ。当時はまったく気がつかなかったが、いつも細かく自分を見てくれていたんだなあと、改めて感謝の念がわいてくる。

同時に大橋は、あのとき、先輩刑事である黒木和也が、同じく安積班の一員である須田三郎部長刑事と、食べ物やら薬やらを持って部屋を訪ねてきてくれたことも思い出した。

『差し入れ持って見舞いに行こうって提案したのは黒木なんだよ』

恐縮して礼を述べた自分に、須田は慌てて否定の手振りをしながら、俺は買い物に口出しただけだし、お礼を言われるのは黒木だけだよと言っていたっけ。警察という組織に居ながら屈託のなく後輩を立てる須田の言葉に黒木は、須田チョウは金も出してくれたじゃないですかと返してから、大橋に向かっては『こういうのはお互いさまだし気にしなくていい』と、柔らかい笑顔と言葉をくれた。その、普段は無口で生真面目で、どちらかと言えば近寄りがたかった黒木の初めて見る一面に、親しみやすさと優しさを感じたことをよく覚えている。

思えば、黒木と仕事以外でも世間話ができるような間柄になったのは、あの出来事がきっかけだった。あれ依頼、週末ごとは言いすぎだけれど、部屋の近さも手伝って、月に2、3回は飲みに行ったり、部屋を訪ねては話を聞いてもらったりという関係を、互いが別の所轄に異動するまで続けることができたのだ。


黒木さん、今何してるのかなあ


視界の先に転がる携帯電話を、ぼんやりと見つめる。

同じ階に部屋があった臨海署の待機寮時代と違い、渋谷区にある神南署から再び臨海署に戻った黒木と、上野署を経てここ竹の塚署に配属された自分との間には現在、電車で約1時間半ほどの物理的距離がある。加えて黒木の隣にはすでに、自分ではない特定の人間がいる。

余計なことも思い出し、大橋は深くため息をついて枕に顔を沈めた。感傷的になってしまうのは体調が悪いせいなだけだと信じたい。

突然、枕元の携帯電話が音を立てて震えだした。わずかな期待をこめて手を伸ばす、当たり前だが求めている名前は表示されていなかった。しかし、着信を告げる画面に表示されているのは、十分に意外性のある人物の名前だった。

『鍵開けるぞ』

大橋が電話に出るなり、相手は名前も告げずこちらの返答をも待たずに一方的な通達だけをして通話を切った。あっけにとられていると間もなく出入口のほうから物音がし始め、ドアが開いて発信主の岸圭一が顔を出した。その後ろには、同じ係の先輩刑事、竹内篤志巡査長の姿もある。

「お、生きてるな」

部屋の中に入ってきた岸は床に脱ぎ捨てられている服や靴下を回収しながら近づいてきた。最初こそ具合はどうか大丈夫かと尋ねてくれたが、半身を起こした大橋の、下着にタオルケットのみという状態を見るや否やこの上なく呆れた顔をした。

「治す気ゼロか」

そう言いつつ、納戸から毛布と布団、適当な部屋着と下着を引っ張り出して大橋に寄越し、着替えを促す。

「汗かいたやつはそこに置いておけ。あとで洗濯しにくる」

その間竹内は、冷蔵庫に購入してきた飲み物やら食べ物やらを詰め込み、一食分だけビニール袋に入れて額に貼るタイプの冷却材とともに枕元に持ってきてくれた。

「すみません」

さっそく冷却剤を額に大橋が詫びると竹内は、俺が倒れたときはよろしくな、と言って笑った。

「岸も、」

大橋が口を開きかけたとたん、竹内の携帯に着信が入った。

「……わかりました、すぐに向かいます」

通話を切ると竹内は、戸口で靴を履き始めた岸に言った。

「傷害と強盗、どっちがいい」

「被疑者が女のほうでお願いします」

「じゃ、両方ともお前な」

「だったら傷害にします」

「そのこころは」

「欠点は1つでも少ないほうが」

そうして大橋が声をかける間もなく、二人は軽口を叩き合いながらばたばたと部屋を出て行ってしまった。

「………」

急にしんとなった部屋を眺めてしばらく、大橋は岸が用意してくれたTシャツと部屋着に袖を通した。ふと見れば、律儀にもうひと揃え、新しい着替え一式が用意されている。普段はいい加減な言動が多く口も悪い奴だが、要所要所を押さえたこういう気配りについては純粋に感心してしまう。そして大橋は、先ほど案件が2つあったはずなのに鳴ったのは竹内の携帯だけだったという事実にも気がついた。それは明らかに、竹内が一人でないことを、すなわち岸と二人で同じ場所にいることを、第二係のメンバー全員が知っていることを表している。


じっと、大橋は自分の携帯電話を見つめた。着信履歴の名前と鳴らないこの状況に、今一度心の中で頭を下げると横になって毛布を肩まで引き上げる。

彼らの気持ちにわずかでも早く応えようと、暖かい布団に身を委ねて大橋は目を閉じた。



2013.6.8


-----

お読みくださりありがとうございました! 竹の塚署の妄想がとまりません。

まだ少し荒いので微修正の予定です。

inserted by FC2 system