『出立』(東京湾臨海署(神南署)安積班:大橋(黒木)※臨海署異動後)




大橋武夫が書類から顔を上げたときに目が合った桐野透は、尋問中と変わらないような険しい眼差しをしていた。

「どうですかね」

眉間に皺を寄せ、この上ないほど真剣な面持ちで大橋と、明日提出予定の書類とを凝視している。

「問題ないと思うよ」

念のため、もう一度だけざっと書面を眺めてから大橋が書類を返す。とたん、桐野は一気に顔の表情を緩めて大げさに安堵の息をついた。

「よかったー! ありがとうございますっ!」

「確実な保証はできないぞ」

心底安心しきっている後輩の楽観的な様子に一応の懸念を伝えたが、桐野は大袈裟な手振りと彼特有の人懐こそうな笑顔で、2つ歳上の先輩の老婆心を制した。

「大橋さんがチェックしてくれたなら大丈夫ですって。だって、自分の知る限りでは」

どこかおどけた様子でちらと背後を確認してから、わざとらしく声を落とす。

「“あの”城山さんから書類の書き直しくらったことないの、大橋さんだけですもん。見ててくださいよ、今度こそ一発OKもらってみせますから!」

自信あり気に、桐野は大橋に向かってこぶしを固めてにっこりと笑った。

桐野がわざわざ「あの」をつけた城山浩次とは、大橋が東京湾臨海警察署、通称ベイエリア分署を異動になり、ここ上野警察署の刑事課に配属されてから組み始めた34歳の部長刑事のことだ。城山は、良くも悪くも非常に細かい性格をしている。大橋が来るまで城山と組んでいた桐野に言わせると、その細かさは「重箱の隅を穴が空くまでつつくほど」だそうだ。組織意識や決まりごとに関してはベイエリア分署時代に組んでいた村雨秋彦部長刑事の指導のほうが厳しかったが、城山の説教はしつこいうえに毎回厭味が混ざるところがきつい。性根は悪い人ではないとわかってはいるものの、先輩刑事として城山を尊敬できるかと問われれば、素直にはいと言える自信は大橋にもない。

帰り支度をする間も礼を言い続けていた桐野がようやく刑事部屋を出て行ったあと、大橋は大きく伸びをしてひと息ついてから、当直用の夕食というには遅すぎる出前を頼むために電話へと手を伸ばした。前の職場では考えられないような豊富すぎる上野の飲食店事情に驚愕したことも今は昔。最近では、何も見ずに係全員の昼食を注文できるくらいにまで各店の品書きを熟知できている。

上野公園、上野動物園、東京国立博物館、そしてアメ横商店街などの観光地を管内に有し、徒歩5分圏内にはJR線、京成線、東京メトロ日比谷線および銀座線の上野駅がある上野署は、都内でも有数の大規模警察署だ。

異動したばかりのころは、下町という土地柄や昔ながらの繁華街特有の賑やかさ、管内施設の規模の大きさ、鉄筋コンクリート7階立ての立派な庁舎、課の数や人の多さなど、とにかくベイエリア分署との違いに圧倒された。加えて、上野署の刑事課が扱う事案は、管内で発生し所轄の人員で解決すべきものはもちろん、他所轄の応援を向かえるものも決して少なくなかった。人口が少ないがゆえに犯罪発生率が低く、捜査といえば近隣所轄の助っ人に回ることが多かったベイエリア分署の刑事課とは真逆の立場になる。

そんな所轄状況の違いは当直についても同様で、夜間になると管内の人口がさらに減少するため深夜帯に刑事課が呼び出されることが稀なベイエリア分署の当直日は、溜まった書類仕事を片っ端から処理できる日と言っても過言ではなかった。が、ここ上野署ではそうもいかない。昼夜問わず人が多く飲み屋も多いせいか、些細ないざこざが傷害に発展するケースが日常茶飯事で、当直日に刑事課の出動要請がない日など数えるほどしかなかった。

今夜も、面倒な案件が降りかかる前に溜まった書類を少しでも片付けようと大橋がキーボードを叩こうとした矢先。刑事部屋の戸が、勢いよく開かれた。

「お疲れさん」

野太い声に大橋が顔を上げた先にいたのは、大橋の上司である角野建造警部補だった。上野署刑事課強行犯第二係の長を務める角野は50歳、五分刈りで色黒大柄という外見から、マル暴、つまり暴力団対策の部署出身という噂が絶えないがそういった経歴はない。豪放磊落で面倒見が良く、家族持ちで高校生と中学生の息子がおり、二人とも父親と同じ警察官の道を志しているという。そんなところからも、角野の人柄は推して図ることができた。

外見だけはどこぞの構成員のような角野は、鋭い目つきで刑事部屋をぐるりと見回した。

「桐野はどうした?」

「ついさっき帰りました」

「そうか」

いつものように大きい動作で頷いた角野は、そのままずんずんと大橋のそばまで来ると隣席の桐野の椅子をひいて腰を下ろし、唐突に言った。

「大橋、このチームは好きか?」

「え」

突飛な質問とあまりに間の抜けすぎた自身の反応の両方に大橋が思考停止していると、角野はそうだよなあと口の中で呟き急な物言いを詫びた。

「実はな、お前に異動の話が来てる」

今度は別の意味で固まった大橋に、察した角野がまあ待てと大きな手振りと共にフォローの笑顔を見せる。

「足立区内に署が新設されるって話は、知ってるよな?」

「はい」

身構えた姿勢のまま大橋が答えると、やや間を置いてから角野は改めて大橋のほうを向いた。

「署長がな、お前をそこの刑事課に寄越したいそうなんだ」


足立区には、西新井署と綾瀬署という2つの警察署がある。両方とも通常規模の警察署であるにもかかわらず、この夏、足立区3つめの警察署が開設されることになった。それが、埼玉県との県境に位置し、管轄地区に舎人ライナーや舎人公園、区内の総合スポーツセンターなどを持つ「竹の塚警察署」だ。

都の予算削減をと叫ばれるなか新しい署を作った背景には、この地区の犯罪発生率の高さがある。西新井署と綾瀬署の警察官は寝る暇もないとは、東京の東に位置する所轄署の人間なら一度は必ず耳にしたことのある言葉だ。大橋も合同捜査本部に呼ばれて角野、城山と共に何度か綾瀬署と西新井署に出向いた経験があるが、両方ともその喧騒がすさまじいものだったと記憶している。

そんな地域に新設される竹の塚署は、綾瀬署がそうだったように、西新井署と、そして綾瀬署からの分離というかたちをとっている。当然だがそれだけで人員がまかなえるはずもなく、近隣の所轄署を中心に一定数の警察官を回すことになったそうだ。その一人に大橋の名前があると、角野は言った。それも、署長直々の希望だと。


「お偉いさんからすると、たとえ一時的でもいいから新しい管内の犯罪発生率を下げたい。だけどベテランばっかり迎えたんじゃあ、年齢に偏りが出る。だから、ある程度若い奴も必要ってわけだ」

黙ったままの大橋の反応を計るかように、角野がいったんの間を置く。

「知ってのとおり、あのへんは戦場みたいなもんだ。いくら若いのが欲しいからっても若けりゃいいってもんじゃない。まあ、桐野にはまだまだ、荷が重すぎるよな」

それには大橋も内心で同意した。桐野は刑事になってようやく一年を越えたくらいだ。向上心もあるし勉強家でもあるが、如何せん実践経験が足りなさすぎる。

「加えてな、今度竹の塚の署長になる人が、うちの署長の同期らしくてな。ほら、うちの署長、ああ見えてプライド高いだろ?」

この先は察してくれといわんばかりに笑った角野だったが、未だ言葉を発しない部下の様子にひと呼吸を置いたあと、十分な間を置いて表情を真顔に戻してから真っ直ぐに大橋を見た。

「俺は正直、今お前をとられちまうのは惜しい」

無言のまま軽く目線を落とした大橋に、角野もまた照れたような笑いを漏らす。

「たが、部下を褒められて欲しいと言われたからには、胸を張って送り出してやりたい気持ちもある」

俺がいちから教育したわけじゃねえけどな、しみじみとした口調に大橋は、配属されたばかりのころ、署の規模と土地柄の違いにとまどっていた自分が環境に慣れるまで、細かな気遣いと暖かい眼差しとで角野が指導し続けてくれたことを思い出した。同時に、その恩を直接返せないまま異動になるのかという悔しさと、自分が期待に応えられるかどうか、間接的に恩を仇で返すことになりはしないかという不安が胸に去来する。

そんな大橋の心中が見えたのか、角野は再び大橋に向かって頷き、「だからさ、」と言葉を続けた。

「課長と相談してな。最大限、お前の意思を尊重して、署長に返事することにしたんだ」

角野は何でもないことのようにそう言ったが、署長直々の人事にいち巡査の意見を加味してくれるなど、縦社会を重視する警察組織としては異例の処置に近い。おそらく課長と二人、忙しいなか時間を割いて議論し結論を出してくれたのだろう。

「ありがとうございます」

ようやく声を出して反応を返した大橋に、角野は強面らしからぬほっとしたような表情を見せた。

「返事は今週いっぱいでいいからな」

邪魔賃だと缶コーヒー2本を大橋の机の上に置くと角野は、適当に休憩しろよと付け加えてからゆっくりと立ち上がり、刑事部屋を出て行った。





大橋が駆け込んだ待ち合わせのその店は、時間帯のせいか次の活気に満ちる一歩手前といった状況だった。店のコンセプトらしく和服姿にたすきがけといった出で立ちの店員が、焦り気味の大橋とは対照的なゆったりとした物腰で、薄暗い店内を席まで案内する。

「すみません、なかなか切り上げられなくて」

テーブルごとに区切られた短い暖簾をくぐるや否や30分の遅刻を詫びた大橋に、すでに着席していた黒木和也が首を振った。

「俺もさっき来たから」

大橋がスーツの上着を脱ぎ始めたのと同じタイミングで上着を脱ぎ始める黒木の気遣いに、相変わらずだなあと大橋は嬉しく思う。


黒木は、大橋がベイエリア分署の刑事課強行犯係にいたころ同じ部署にいた先輩刑事だ。今は、かつてのベイエリア分署刑事課強行犯係のメンバー、安積係長、村雨巡査部長、須田巡査部長、桜井巡査とともに、渋谷区にある神南警察署の刑事課強行犯係に所属している。

「不言実行」をそのまま体現したような黒木は、普段は無口で控えめだが、ひとたび何かあると元中距離走選手という俊足と人並み外れた運動神経を生かして犯人逮捕や仲間の危機に貢献する。大橋も以前、その機動力に助けられたことがあり、それ以来、密かに尊敬と憧れと、淡い好意を抱いていた。

実は今夜、全席間仕切りがある準個室と薄暗い照明がかもす落ち着きを売りにしているこの店を選んだのも、仕事上の相談事があるからということのほかにちょっとした二人きり感が欲しかったからというのが本音だ。そしてそれに気がつかないところも含めて、大橋はこの生真面目な先輩のことが好きだった。


入店時より店が騒がしくなり、ろくに手がつけられていない料理が仄暗い明かりの下で冷め始めても、黒木は黙って大橋の話に耳を傾けてくれていた。

今回の異動は、自分の若さと、規模が極端に違う2つの署に所属した経験を買われたらしいこと。署長自らの推薦で、課長と係長が気を遣ってくれていることには感謝しているが、期待に応えられるかどうか不安なこと。加えて、せっかく上野の土地柄と署内の雰囲気に慣れ始めた矢先の異動は感情面から辛く感じるし、今のチームにまだ貢献できてないままの異動が心残りであること……。愚痴のような相談のような、ひどくまとまりのない言葉をひととおり終えて、大橋は大きな溜息をついた。

「評価してもらえるのは嬉しいんです。でも、また異動なのかと思うと、正直、落ち着かなくて」

沈んだ目線に、黒木が頷いた。同情も肯定もない姿勢は、以前、臨海署から上野署に異動が決定したとき、不安の吐露に付き合ってくれたときと変わらない。

「すみません、一方的に喋っちゃって」

これもまたいつものことなのだが、律儀な黒木は短い否定とともに空になった大橋の猪口に銚子を傾けた。自分は手酌で猪口を満たしてから大橋に尋ねる。

「お前が組んでる人、何ていったっけ」

「城山さんですか?」

「その人は、何て?」

束の間大橋の表情が止まったのは、その問いが、自分にとってはひどく想定外だったからだ。

「……まだ言ってません」

溜めた返答と硬め口調の意味を理解したらしい黒木はそれ以上問いを続けてこなかったが、組んでいる相手に何も伝えていないという事実に比較的驚いていることは容易に見て取れた。

それは、組んでいる須田を普段から敬愛している黒木だからこその驚きであり、自分と同じ状況になったら黒木は真っ先に須田の意見を聞くに違いない。その、先輩後輩の垣根を越えた二人の信頼厚い関係に、大橋はいつにも増して純粋な羨望を感じた。

須田三郎部長刑事は、見かけも内面も警察官とはにわかに信じがたいが、ツキと知識を武器に持つ非常に優秀な刑事だ。その人柄も温かく、目上でも目下でも、極端な話容疑者にでさえも、困っている人間がいれば同調し手を差し伸べてしまう。後輩を「後輩」としか思っていない城山とは、雲泥の差といっていい。

ふと、大橋の脳裏に、異動は巣立ちだからめでたいんだと励ましてくれたかつての上司である村雨の笑顔が浮かんできた。一人だけ安積班から外された落ち込みを、そのひと言で払拭してくれたことにはとても感謝している。ベイエリア分署と上野署と、違いすぎる環境のなかで音を上げずに頑張れたのも、ひとえに村雨の厳しくて細かい教育があったからこそだ。

もし目の前にいるのが黒木ではなくて村雨なら、署長から打診されたのが角野ではなく村雨なら、今組んでいるのが村雨なら。

自分のこの悩みに、一体、なんと言ってくれるのだろう。

今度は長く押し黙った大橋をしばらく無言で見つめていた黒木だったが、やがてゆっくり手元の猪口を煽ると、静かに口を開いた。

「村チョウだったら、即、行ってこいって言いそうだけどな」

たくさんの意味を込めて瞬きをした大橋に、頷く。

「すごく、喜ぶんじゃないか」

彼にしては珍しく断言に近い口ぶりで、黒木は大橋にそう言った。





最後の上野署勤務を終えた翌日は、朝から気持ちの良い晴れ間が広がっていた。

在籍が短かったせいか、荷まとめ作業は思った以上に早く済んでしまった。あとは置き忘れがないかをざっと確認して終わりだ。

窓枠に寄りかかり、大橋は部屋のなかを改めて眺める。人が集う部屋ではなかったが、それでもときどき、缶ビール片手に桐野をはじめとする同僚たちが来たひとときがぼんやりと思い出された。

不覚にも感傷的になってしまうのは昨夜、係員が催してくれたささやかな送別会のあとの出来事のせいだ。

「お前、健康管理だけは不合格だぞ」

刑事は体力勝負で体が資本だ、若さに甘えると後悔するぞ、いつもの説教口調にうんざりしかけた矢先に城山は、気休めだけどなと前置きして、大橋に袋いっぱいの外国製サプリメントをくれたのだ。城山からは1年くらい保つからと言われただけだったが、後から桐野が「そのメーカーのサプリってすごく人気があって、国内で手に入れるの大変なんですよ」とこっそり教えてくれた。

何だかんだで自分は組む相手に恵まれているのかもしれない。初めて見た城山の優しさを思い出したとたん喉のつまりを感じ、大橋は慌てて鼻から深く息を吸った。桐野の手伝いを辞退したのは正解だ。


窓の外には、今日まで慣れ親しんだ景色が広がっている。この瞬間のように、いつか竹の塚署の独身寮から見えるすべてのものを同じ目線で感じる日がくるのだろうか。


一陣の風と共に、トラックの来訪を告げる音が大橋の耳に入ってきた。



2012.5.30

# 2012.5.31 微修正

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