『門出』(ベイエリア分署:大橋、村雨)




この人には、情というものがあるのだろうか。

決して口には出さないが、大橋武夫は村雨秋彦といるとそう感じることが多々ある。

村雨は、大橋が新米刑事として東京湾臨海署、通称ベイエリア分署の刑事課強行犯に配属された頃から組んでいる部長刑事だ。歳 は36歳、持ち家があって妻と娘と三人家族という状態なら、未婚で署の敷地内にある独身寮住まいの大橋よりも季節の移り変わりや日々の諸々に気をとられて もいいように思えるが、実際はまったく違う。組み始めてからだいぶになるが、未だに大橋は世間話というものを必要以上にされたことがない。理由は簡単、村 雨とのコミュニケーションの8割が仕事絡みの小言と指示と説教で成り立っているからだ。


最初のうちは大橋も、右も左もわからない状態ゆえ自分に対する村雨の態度は当たり前のことだと思って夢中で指導を受 けていた。「新人はお茶くみ三年」、「電話は誰よりも早くとれ」、「挨拶はきちんとしろ」、「所轄周辺の地理はすべて頭に叩き込め」、「常に周囲に気を配 れ」、「先輩を待たせるな」、「メモの記入は事実だけを仔細もらさず」、「根拠のない推理は軽々しく口に出すな」。それらを事あるごとに言われるのは日常 茶飯事で、失念すれば叱責がとんでくるしできたとしてもチェックが細かい。一度教えたことは実践できて当たり前で褒められたことはほぼ皆無でも、自分は新 人だしそういうものだと思っていた。

しかし、少しだけ余裕ができて周りが見えてきて、先輩の黒木和也巡査長や後輩の桜井太一郎巡査から、彼らがそれぞれ組んでい る須田三郎部長刑事と安積剛志警部補の話を聞いていると、村雨が同じ部署にいる安積や須田とは後輩に対する接し方がまったく違うということがわかってき た。


あれは確か桜井が強行犯に配属されてからしばらく経ったころ、黒木と桜井の三人で飲みに行ったときのことだ。

「村雨さんて細っかい人ですねー」

桜井から、同情に近い口ぶりでビールをつがれた。

「この間安積係長がいないとき代わりに急ぎの書類を確認してもらったんですけど、表現が曖昧すぎるとか字が雑だとか説教がものすごくて。書類もほぼ書き直しですよ。大橋さん、よく一緒に行動できますね」

聞き込み中のときなんかも口うるさいんじゃないんですか? 桜井の問いに大橋が黙っていると、隣にいた黒木が新人時代なんて 注意されてなんぼだろと流してくれたが話し振りから桜井は、安積係長から口うるさく言われることはないようだし捜査に対して意見を求められることもあると いうことが知れた。すでに刑事としての経験を積んでいて須田とも歳が近い黒木が組んでいる相手と意見交換をしているのはわかるとして、桜井は自分より1つ とはいえ歳が下なのにとやるせない気持ちになったのをよく覚えている。大橋が、村雨に対して自分の感情を一切出さないようにしようと決めたのもこのときだ。


それからいくつかの事件を経て安積の考え方や須田の捜査の仕方を目の当たりにし、そのやるせなさは日を追うごとに強 くなった。小言を聞かされるたび、自分は聞き込みも取り調べも犯人逮捕もある程度はそつなくこなせているはずだという思いが大橋の胸に去来する。そろそろ 新人のレッテルを剥がしてパートナーとして見てくれてもいいじゃないですかと喉まで出かかることもしばしばだったが、名実共に刑事課強行犯の優秀なナン バー2である村雨に抗議などできるわけがない。相変わらず一日一回は必ず説教されながら、黙って村雨の指導に従う日々を過ごしていた。


大橋が町田課長から上野署への異動辞令を言いわたされたのは、独身寮の部屋の近さからよく飲みに行っていた黒木に、村雨の愚痴を頻繁にこぼすようになった矢先だった。


噂は、あった。人口が少なく犯罪発生率も低いお台場を本拠地とするベイエリア分署は当面不要と上から判断され、近々 なくなってしまうということ。そこで浮いた人材の大半を、犯罪発生率の高い渋谷区において渋谷署や原宿署、代々木署を助ける存在として設置された神南署に 充てること。さらに、人手不足の警察署へもベイエリア分署から人材を回すこと。

だから近いうちになんらかの形で強行犯係に変化が出ることは大橋自身も予想していたが、自分「だけ」が他のメンバーの異動先である神南署ではなく、違う所轄に異動になるとは思っていなかった。


村雨との関係を、係長である安積が心配していることは薄々感じていた。それとなく村雨の指導は厳しすぎるかと聞かれ たり、村雨がその場に居るのに須田と聞き込みに行けとか自分と一緒に来いとか、唐突に村雨以外の人間と行動をするような指示を出されたこともある。村雨は 後輩への接し方が苦手かもしれないけど悪気はないよ、共に行動したときに須田からフォローされたこともある。そういう点から見れば、今回の異動は能力の過 不足とは関係のない、妥当な判断なのだろう。

それでも、頭ではわかっていても、「ひとりだけチームから外された」ことのショックは消し切れない。辞令以降村雨の小言が増え気味になったことも重なって、大橋はますます感情を押し殺すようになっていった。



大橋がベイエリア分署安積班として最後の一週間を迎えた朝、9時ぴったりに電話が鳴った。桜井と僅差で取り上げた受 話器の相手は南千住署からの転送で、早朝に隅田川沿いで毛布に包まれた幼児が保護されたという案件だった。首にビニール紐が巻き付いており、息はまだある ものの意識不明でかなり危険な状態らしい。

第一発見者は近所に住む中年男性。散歩中の犬がしきりに吠えるので不審に思いついて行ったところ被害者を見つけ、すぐに 110番通報したという。発見現場の荒川区南千住は地番だけ見ると南千住署の管轄地区なのだが、白髭橋以南の隅田川の水上管轄は東京湾臨海署になるため、 南千住署から出動を要請されたというわけだ。

すぐに、安積から村雨と大橋に南千住署の応援へ向かうよう指示が出た。

「被害者が幼児ですから帳場が立つと思います。あらかじめ課長に話をしておいていただけると助かります」

近年の幼児虐待殺人の増加を加味して、ここ最近は被害者が幼い場合、たとえ殺人未遂でも必ず事件の早期解決に向けて本庁から 帳場、つまり捜査本部設立の指示が出される。安積がそれを知らないわけがなかろうに、村雨はいちいちこういうことを口に出す。係長はその几帳面加減をどう 思っているのだろう。刑事部屋の出入口で村雨の準備を待つ間、大橋は漠然とそんなことを考えていた。



被害者幼児の名前は戸田健太、荒川区南千住8丁目のアパートに母親と妹と3人暮らしの4歳児。

南千住署に到着した村雨と大橋に被害者の身元を教えてくれたのは、笠間という30代半ばの温和そうな部長刑事だった。

「通報されたとき、すでに母親から捜索願いが出ていたんです。だからすぐに身元がわかったんですけど……」

深く眉間に皺を寄せて、口元を歪める。

「未だ意識が戻る気配はないようです。小さい子どもの事件は本当にいたたまれませんよ。無事に回復してくれるといいのですが……」

ここにいるのがもし須田だったら、沈んだ声で目を伏せる笠間の発言と心情を受け止めて、一緒に同情し被害者のことを思って嘆き悲しむのだろう。しかし村雨は、独身の須田と違って幼稚園に通う娘がいるというのにそんなことは露ほども出さない。

「身元が判明しているのであれば、捜査範囲がかなり狭まりそうですね」

いつもの口調で、実務的な内容にだけ意見を返した。


笠間によると、身元を確認したのは健太の母親である戸田幸枝、25歳。26歳の元夫、すなわち被害者の父親とは男性側の不貞が原因で1年前に離婚している。

捜索願を出すために直接南千住署に出向いた幸枝の話では、健太がいなくなったのは真夜中、夜泣きを始めた生後10ヶ月の妹を 寝かしつけるために外に出ていた30分弱の間。夜泣きが落ち着いて戻ったら、かけたはずの玄関の鍵が開いていて、就寝時にかけていた毛布と一緒に忽然と姿 を消していた、と。

「発見時にも毛布に包まれていましたし、服装もパジャマで裸足でしたから母親の証言に齟齬はありません。足の汚れもほとんどないので、眠ったまま運ばれた可能性が高いと見ています」

「目撃証言はあるんですか? もしくは被害者の声を聞いたとか」

「いいえ。今朝からうちのが聞き込みに行ってますがまだ報告は上がってません。昼過ぎにはいったん戻ると思うんですけど、臨海さんはこっちにいる母親の取調べを引き継いでくれませんか」

何気ない笠間の表現に、鋭く村雨が反応した。

「“取調べ”の継続、ということは、母親に疑いがあって“勾留している”という意識があるんですか?」

「えっ、いや、そういうわけじゃないです」

村雨の指摘に笠間が慌てて弁解をした。こんなところに食いつかれるとは思ってもいなかったのだろう。

「勾留してはいません。ですから、そうですね、“事情聴取”の継続をお願いします」

「わかりました」

村雨が頷いた。笠間が安堵したように見えたのは気のせいかもしれない。

「母親は被害者が搬送された病院の心療内科にいます。部屋は607室。病院側には話が通るようにしておきますから」

「心療内科?」

今度は純粋に疑問を示した村雨に笠間がまた悲しそうな顔をして溜息をつく。

「衰弱した子どもと対面したとたん、取り乱してしまって手がつけられなかったんですよ」

瀕死の我が子を前に発狂手前の母親への事情聴取とは、ずいぶん嫌な役を押し付けてきたなと大橋は思った。南千住署は小規模警 察署なため刑事の人数が少ない。人手不足なのは分かるし鑑のあるほうが周辺の聞き込みをするのは当然としても重みの差がありすぎる。だが村雨はとくに意義 も唱えず笠間に了解しましたとだけ告げると、大橋を促して病院へと足を進めた。


戸田幸枝は、無造作に結った髪がほつれ気味なことに憔悴が加わったせいか、実年齢より10歳は老けて見えた。

最初は村雨と大橋に向かって疲れきった顔を上げただけだったが、村雨が質問を開始するなり両の目に悲しみと苛立ちと自責を宿 して泣き崩れ、さっきから同じことばかりを聞く、一体なぜこんなことになっているのか、健太に会いたい傍に行きたい、ぜんぶ私の責任だなどと、半ば悲鳴に 近い声で言い続けた。ようやく隙を見て質問を試み回答を得られるものの、それを確認をするとまた取り乱して泣き崩れるという始末である。

初動捜査の刑事の次に事情聴取をすると、関係者は同じことの繰り返しに嫌気がさし、最初は素直に応じてくれた人間でも質問に 答えてくれなくなる場合は多い。ましてや、自分の不注意で生死の境をさまようことになった子どもと離ればなれになっているとなれば、この状態は当然であろ う。いくらなんでも労わるなり慰めるなりしたほうがいいんじゃないかと大橋は思ったが、手帳を開いたまま聴取の姿勢をとる村雨に相手に対する同情の素振り は一切ない。母親の精神状態が不安定なことからこの場に同席している年配の女性看護師の、冷たい目線が痛かった。

結局、粘ったものの南千住署の初動捜査以上の情報は得られず、そばにいた看護師が号泣する幸枝と質問を続ける村雨の間に入る形で、事情聴取は強制終了となった。

「最初にきた刑事さんたちはもう少し優しかったですよ」

帰り際、ドアの外で付き添いの看護師が腹立たしげに村雨に抗議をした。村雨は失礼しましたと詫びたが形ばかりで、申し訳ないという姿勢はかけらも見せない。看護師はさらにむっとして病室の中へ戻っていった。

「母親が関与していた可能性もあるからなあ……」

病院を出たあと、ぽつりと村雨が呟いた。確かに、やり方は非人道的で杓子定規でも村雨の行動は正しい。実際、被害者の死を大 げさに嘆き悲しんだ殺人犯の枚挙に暇がないことは事実だ。下手に同情して真実を逃してしまう可能性は否定できない。釈然としないとはいえ正しいことがわ かっているから、大橋はただ小さく頷くことしかできなかった。


南千住署に戻ると、二人の姿を見るや笠間が駆け寄ってきた。

「ついさっき本庁のほうからうちに連絡がありましてね、幼児絡みなので、すぐにでも捜査本部を立ち上げろって話です」

捜査本部の単語が聞こえたので、大橋は携帯を取り出した。大橋がベイエリア分署の刑事課に繋げている間、村雨は笠間に、帳場 はどちらに立てるのか、おおよそどれくらいの規模になりそうかを相談している。電話口に安積が出て大橋がひととおりの報告を終えた頃には、土地鑑の有利さ から南千住署に本部を設けてほしいことと、臨海署は大規模異動が控えているため自分たち以外の人員が割けなそうだから、南千住署を中心とした近隣の所轄に 積極的な応援を頼みたいという村雨の希望が笠間に伝わり、了解を得るまで進んでいた。

「手際がいいですねえ」

相談後すぐに村雨が上司と電話で話せていることに驚いた笠間が大橋に話しかけた。

「うちの若いのにも見習わせたいですよ」

世辞ではなく心底感心している笠間に、言われ続けてきたことをしているだけでそんなに大したことはしてないのにとくすぐったく感じつつ、大橋は控えめな謙遜と共に素直に礼を述べた。



昨今の幼児虐待事件の多さと世間の注目度を意識しているかのように、捜査本部は瞬く間に整えられた。幼児が保護され たその日の夕方遅くには、誰が書いたのか非常に達筆な「隅田川幼児遺棄殺害未遂事件特別捜査本部」という毛筆の看板が南千住署のいち会議室の前にかかげら れ、南千住署をはじめ、近隣の荒川署、浅草署、葛飾署、そして本庁の刑事たちが集まり、初動捜査の報告が開始された。

身元判明の早さが功を奏したのか、この時点で南千住署の捜査員たちが有力と思われる目撃情報を手に入れていた。被害者の自宅 周辺から保護現場の間で重点的に聞き込みをしたところ、午前3時頃、川のほうへ毛布に包んだ荷物のようなものを肩に担いで早足に歩く男性を見たという情報 が数件あり、そのうちの一人が、男が持っていた毛布と被害者が包まれていた毛布が同じ柄だったと断言しているというのだ。また近隣住民の証言で、幸枝宅に つい二週間前まで出入りしている男性がいたらしいことが判明した。幸枝がその男性に脅える素振りもあったという。同時に、健太と妹の通う保育園の証言か ら、幸枝の母親としての評判の良さと日常的な虐待は一切見られないことが報告された。

このことから、母親が何らかの関与をしていたという線は薄いながらも引き続き残したまま、まずは幸枝宅に出入りしていたという男性の存在の追跡に人員の大半をつぎ込むことで、捜査の大筋が決まった。

大橋は、村雨と笠間、もう一人守野という28歳の警視庁捜査一課所属の巡査と共に母親周辺の聞き込みを担当することになっ た。捜査会議終了後、土地勘のある笠間と若い守野が組んで自宅回りを、村雨と大橋は母親の職場を中心にあたる分担をしたところで、この日は解散となった。 聞き込みは明日の朝いちからと決まったため、大橋と村雨はいったんベイエリア分署に戻ることにした。



22時近い刑事部屋には、安積係長と桜井がいた。二人とも書類の山に埋もれている。

短いねぎらいをかけてくれてから安積は、報告を聞いたあと村雨に今回の事件の所感を尋ねた。

「現段階での情報ですと現場付近で複数回目撃された男が実行犯である可能性は非常に高いですね。ただ、被害者家族との関係は推測の域を出ませんし、母親が外出時に鍵をかけたという証言が正しければ侵入方法についても未解決です」

「容疑者の侵入に母親が関与している可能性は?」

「鍵について嘘をついているようには思えませんでした。ですが潔白だという証拠もありませんからね。共謀の可能性もゼロとは言い切れません」

「なるほどな」

それから安積は、いつも通り大橋にも水を向けた。

「お前からは何かあるか?」

「報告以上のことはありません」

大橋の即答に安積がそうかと言うや否や、突然、村雨が聞き返した。

「本当か?」

「え?」

ふいをつかれて、大橋はうっかり気の利かない反応してしまった。安積も普段と違う村雨の行動にわずかだが眉を上げた。桜井もまた興味深そうに書類から目を離してこちらを見ている。

「え、じゃない。お前だって一緒に聴取してたんだ。何かあるだろう」

明るみになっている事実の報告をすべて終え村雨の考察も済んでいるこの段階で、安積からではなく村雨から、係長の前で自分の考えを示せと促されたのは初めてだ。内心かなり驚き若干焦りながらもそれは悟られないように、大橋は考えていたことを安積に伝えた。

「村チョウの言う通り、母親が潔白だという証拠はありませんし、短時間とはいえ幼い子どもを残して家を空けるという不注意もしています。ですが、自分は戸田幸枝が子どもを手にかけたはずはないと考えます」

言ってしまってから、遠まわしに村雨の発言を否定してはいないだろうか曖昧な表現していなかったかとどきどきしたが、村雨は 何も言わなかった。代わりに安積が考察の理由を問う。大橋は、捜索願いを出しに交番ではなく直接警察署にかけこんでいること、母親としての評判の良さや子 どもを案じる様子を話した。

大橋の話を黙って聞いていた安積はそうか、と短く頷くと、明日から忙しくなるだろうからもう上がれと二人に告げた。

「ちゃんと自宅と寮に帰るんだぞ」

「わかってますよ係長。戻りますから心配しないでください」

村雨はそう返したが、大橋は村雨の言葉の真の意味を深く理解していた。

寮に帰り、大橋は簡単な入浴と着替えだけを済ませると、その日のうちに南千住署の捜査本部へ向かった。



本部設立の翌日昼すぎ、幸枝の元に出入りしていた男が判明した。加藤滋、35歳、元運送業、現在は無職。幸枝の勤め 先のスーパーに荷下ろしをしていたことで幸枝と知り合い、わずかな期間だが男女の関係もあったらしい。加藤は、口説いている最中こそ優しかったが付き合い 始めてから子どもを邪険にするようになり、短期間で愛想をつかされたようだ。目撃された人物と加藤の背格好が似ていたことからすぐに任意で事情聴取を行っ たが、加藤は質問を否定、事件当夜にはアリバイがあるとかなりふてぶてしい態度で主張した。

「その日は行きつけの店で開店間際から朝まで飲んでましたよ。幸枝の家の鍵? そんなもの持ってるわけないじゃないですか」

裏取りをした捜査員によると、確かに事件当夜、加藤のいう居酒屋に本人の姿があったことは事実のようだ。が、店主に詳しく話 を聞いたところ「ツケも溜まっているのにここ1週間くらいは不自然なほど毎晩顔を見せており、必ず朝まで飲んでいた」、「でも昨夜は来店がなかった」な ど、かなり奇妙な行動をとっていることがわかった。また加藤の評判は芳しくなく、現在無職なのも元勤め先で暴力沙汰を起こしたことが切っ掛けだったという ことや、幸枝の子どもたちに対して「振られたのはあいつらがいたからだ」という恨み節を周囲に漏らしていたという事実も明るみに出た。

結果、動機の点から加藤への容疑が濃厚になり、加えて男性の共犯者がいたのではという説も浮上して、加藤周辺を重点的に洗う方向で捜査は進んで行った。


一方、大橋と村雨は依然として母親周辺への聞き込みを続けさせられていた。加藤が第一容疑者としてマークされている今、笠間と守野はすでにそちらの人員へとシフトされている。

はっきり言って貧乏クジだ。

口にも態度にも出さないが、大橋はこの分担に明確な不満を持ち始めていた。犯人として有力な人間を追っているわけではなく、 疑いが薄くなってきた相手を追うのは徒労になることが目に見えているぶん、やる気の出る仕事ではない。まして、大橋自身としては幸枝の関与は完全にないと いう見方にあるのだ。気力が半減してしまうのも当たり前である。

しかし、最も解せないのは、村雨の態度だった。

捜査を続けていく中で村雨自身も、幸枝の関与はなく、加藤が共犯者に命じるか何かして健太を暴行、遺棄したという筋を読んで いるはずなのに、一切そういった発言を表に出してくれない。捜査中は大橋にも「母親の線は完全にないな」とか「動機の強いだろう加藤に有力なアリバイがあ るってことは、共犯者は加藤に弱みでも握られてたかもな」などと言うが、いざ報告の段になるとその日に得た情報のメモを淡々と読み上げるだけだ。

最初は協力的だった母親周辺の関係者も、だんだんと自分たち刑事を煙たがるようになってきた。中にはあんないい人を疑っているのかと、くってかかる者も出てくる始末。そんなときも村雨は、否定めいた言葉を使わずに「決まりなので協力をお願いします」を繰り返すばかり。


来週には異動になって自分と組むこともなくなるから、もうどうでもいいと思っているのかもしれない。

村雨の背後で空振りのメモをとりながら、大橋は心の中で肩を落とした。最後くらいは一緒に真犯人を追いつめるような活躍をし てみたかったけれど、かなわないまま解散になるのか。それならいっそ、もうこの捜査本部から抜けさせてもらって、最後の1日はベイエリア分署で過ごしたい と願い出てたほうがお互いのためになるのではと本気で考え始めてしまう。


今日捜査本部に戻って会議が終わったら直談判しよう。大橋がそう決心して挑んだ最後の聞き込み先は、事件が起きてから3度目の訪問になる幸枝の職場だった。

「何度も言いますけどね刑事さん、戸田さんと加藤さんはここじゃ荷下ろしのときに話してた程度でそれ以上でもそれ以下でもな いですよ。お付き合いしていたと聞いてはいますが、加藤さんがクビになってからは一切、一緒にいる姿どころか加藤さん本人を見かけてもいません。連絡が あった形跡もありません」

戸田幸枝と加藤滋の接点について村雨が質問したとき、仕入れ担当の男性主任が腹立たしげに答えた。

「他に知ってる人はいないですよね?! 戸田さんが加藤さんと話してたとこ見たなんて人は!」

大きめの事務所で夕方休憩中の社員やパート数人へ、男性主任はこれみよがしに声を張り上げた。もう知っていることは何もないといわんばかりの態度だ。部屋にいた他の従業員たちの大半も、せっかくの休憩中に乱入してきた刑事二人を迷惑そうに見ている。

切り上げどきかなと大橋が考えた矢先、男性主任の影にいた30代後半とおぼしき女性がおずおずと顔をのぞかせて手を挙げた。初めて見る顔だ。おそらく今までは聞き込みのときはたまたま不在だったのだろう。

「この間、戸田さんが男の人と話してるの見ましたけど……」

見るからにお人好しといった風体のその女性は、村雨の促しを受けて記憶をたぐるように両手指を絡ませた。

「1週間くらい前です、お昼休みに……スキンヘッドで耳と鼻にピアスがたくさん開いてる若い人で、すごく喧嘩してて……」

大橋は開いた手帳に挟まれた加藤の近影にさっと目を走らせた。加藤は短い角刈だ。見たところカツラではなさそうだし、耳と鼻にピアス穴はない。

「あー、小野さん、そいつ加藤さんじゃないよ。信吾だと思う」

近くにいた若い従業員が、発言をした女性に向かって否定の手振りをした。

「へえ、あいつまた来てたんだ。しょうがねえなあ」

「しばらくこなかったのにねえ。また何かやったのかしら」

そばで話を聞いていた2、3人が口々に呆れ出した。雰囲気から察するに、この店の関係者ではあるが印象が悪いことが伺える。

「信吾ってのはさっちゃんの弟だよ、刑事さん」

今回の事件で初めて聞く名前にさり気なくだが素早く反応した村雨に、初老の男性が眉を顰めて身を乗り出した。健太のことはよく知っているから絶対に犯人をつかまえてほしいと、最初の聞き込みのときから割と好意的に接してくれていた最年長の清掃員だ。

「悪いやつじゃないんだけどギャンブル癖が抜けなくてさ、年中借金こさえてんだ」

話によると、幸枝の弟の名は鈴木信吾、22歳。名字が違うのは、幸枝の実両親が離婚したとき父親に引き取られたからだそう だ。高校を出てすぐに就職した会社が倒産したため、幸枝の紹介でこのスーパーに清掃員として勤めたが、素行が悪く半年前に解雇されている。それから職を 転々とし、ときどき幸枝に金を無心しては断られて口論する姿が目撃されていた。最後の口喧嘩は1週間ほど前、それは加藤が行きつけの店に不自然な入り浸り を始めた日と一致していた。さらに鈴木信吾は、髪型や顔の雑作はまったく違うが背格好が加藤に似ているという。

その日の捜査会議で報告をしたところ、加藤の交友関係を重点的に洗っていたチームが突然手を上げた。今日ようやく手 に入れた加藤の携帯の通話履歴に一致する名前があったと言うのだ。すぐに資料を確認したところ、一週間前を境に連日同じ時間帯に信吾からの通話記録があ り、事件当日未明を最後にぱったりと途絶えていることが判明した。これは、明らかに何かあることを示している。

そこから先は早かった。翌早朝に捜査員が鈴木信吾の自宅を尋ねると、彼は警察の姿を見るや否や肩を落とし、自ら罪を認めた。

動機は、金だった。幸枝から借金を断られ、説教までされた憂さ晴らしに入ったパチンコ屋で加藤に声をかけられた。飲み屋で愚 痴った結果、俺が金を貸してやるから邪魔な子どもの始末をしてくれという話になったそうだ。最初は断ったが、最終的には借金をすべて肩代わりしてくれるこ とを条件に、今回の前金として少なくはない額を渡されてしまったこととが、信吾を犯行へと促した。

やるからにはすぐにと、計画はその日から始まった。赤ん坊の夜泣きで幸枝が深夜や未明にときどき家を空けることを知っていた 信吾は、その時間を慎重に測りつつ機会を窺っていた。しかしいざ誘拐して殺害しようと首を絞め始めたが怖くなってしまい、健太がぐったりした段階で遺棄し たと、洗いざらい白状した。川原まで運んだのは発覚を少しでも遅らせるためで、アパートの鍵は、信吾の実母の自宅、つまり幸枝の実家に侵入して合鍵の型を 取り、複製を作ったという。

自白の裏が取れれば、日暮れ前に加藤の逮捕令状が下りることは誰が見ても確実だ。また実行犯である鈴木信吾が逮捕されていることもあり、この案件は事実上の解決となった。

捜査本部の正式な解散は加藤の逮捕後だが、応援の所轄が引き上げるのと同じタイミングで村雨と大橋もベイエリア分署へ帰ることにした。

「いいんですか、臨海さんの手柄じゃなくて……」

事件が早期に解決できた切っ掛けの一端は、村雨と大橋が母親周辺の地道な聞き込みから鈴木信吾の情報を引っ張り出したからだ。笠間は最後までベイエリア分署の立場を気遣い、加藤の手錠は村雨たちがかけるべきと主張してくれたが、村雨はきっぱりと断った。

「この案件はあくまでもそちらが主導だったんですから。自分らは単なる助っ人ですよ」

続けて村雨が来週から自分と大橋が神南署と上野署にそれぞれ配属されることを告げると、笠間は聞き慣れた近隣所轄の名前に嬉しそうに笑った。

「上野さんとはよく捜査で一緒になりますよ。大橋さんとはこれからもお付き合いが続きそうですね」

握手を求めた笠間に大橋が応えるより前に、傍にいた村雨が深々と頭を下げた。

「こいつはまだまだ新人でして。大いに鍛えてやってください」

恐縮した笠間が、慌ててこちらこそと村雨に倣う。

最後の最後まで堅苦しいなあと感じながら、大橋は横で二人よりも深く頭を下げて南千住署を後にした。



その夜、ベイエリア分署の刑事課強行犯としての職務をすべて終えて帰ろうとした大橋は、村雨に飲みに誘われた。

時刻はすでに23時を過ぎている。翌週から上野署の勤務が始まるため土日はまるまる引っ越し作業をしなくてはならない。今か ら飲みに行くのは正直面倒だし、どうせいつものように事件についての反省会になるから嫌だなと思ったが、それも今回で最後だと考え直して、大橋は誘いに同意した。


新橋まで出て連れて行かれた店は、なじみの居酒屋ではなく、駅からわかりにくい場所にある鮨屋だった。日中と同じメニューや値段で朝までやっている珍しい店だと村雨がいう。おまけに安くて旨いんだと自慢げに表現したところをみると、たぶん行きつけなのだろう。

「いや、それにしてもめでたいな」

座敷席についたとたん、肩の荷をおろした晴れやかな表情で村雨が笑った。こんな顔もするんだなと意外に思いつつ、そうですね、と大橋は無難な返しをする。

「母親への疑いもこれで完全に晴れましたし……」

テーブル隅に立て掛けられたメニューの束を掴み飲み物のものだけ選り抜いて差し出すと、目が合った村雨から何言ってるんだと笑われた。

「めでたいってのはお前の異動ことだよ」

言葉の意味を解しかねて黙っている大橋からメニューを受け取り、村雨は近づいてきた店員を呼び止めて一番高い銘柄の瓶ビールを注文した。

「巣立ちだぞ、めでたいじゃないか。チームを離れるのは独り立ちできるってことの証明なんだから」

そう言って村雨は、伏せられていたビールグラスを大橋の分も含めてひっくり返す。

「正直言うと、もっともっと教えてやりたいことがあったけどな。でも、お前だったらどこへ行っても誰と組んでも、十分、うまくやれるよ」

俺が保証してやる、笑って差し出されたコップを無言で受け取ってしまったのは、あまりの驚きに言葉を失っていたからだ。いつもならすかさず注意されるところだが、今日の村雨は笑顔を崩さず話を続ける。

「警察なんてのは規則もうるさいし、捜査は地味のひと言に尽きるだろ? でも、規則と地道の重要さを知らなくてできないのと 知っててやらないのは全然違う。この先どんなに昇進しても、捜査の基本は絶対に忘れるんじゃないぞ。それから、安積さんの下にいたってことは刑事として誇 りに思っていい。お前の信じる捜査方針に対してつまんないことを言う奴がいたら、「俺はベイエリア分署の安積班出身だ」って胸張って言い返せ」

ぽんと肩を叩かれても、こみ上げてくる感情に胸が詰まり顔をうつむけたままわずかに首を縦に振ることしかできない。

「ほら、めでたい席なんだからしけた面するな」

運ばれてきたビールの栓を、村雨自らが開ける。唇の震えを懸命に抑えてありがとうございますとようやく言えた大橋の礼に、注ぎ口を傾けた村雨は満面の笑みで頷いた。


もしこの先、刑事としての自分を大いに褒めてもらえる機会に出くわしたとしたら。

そのときは、元ベイエリア分署の村雨秋彦巡査部長に指導を受けたと堂々と言おう。

ベイエリア分署の名に、何よりもこの人の名に恥じないような、いい刑事になろう。


酔いの回った村雨が特別だぞと自慢げに見せてくれた手帳の中の写真に笑顔を返しながら、大橋は強くその胸に誓った。



2011.5.15

# 2011.12.29 恥ずかしすぎる間違いを修正。

# 2012.4.24 微修正

# 2014.3.4 微修正


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お読みくださりありがとうございました。

大橋が好きすぎて、彼の異動前後の話が書きたくて書きたくて、ようやく書けました。

安積班の二次を書こうと決めた切っ掛けでもあります。

また出ないかなあ、大橋。またどこかの捜査本部で安積班のメンバーと一緒に活躍してほしいです。

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