『朧月夜』(兼続×三成)

伏見、上杉邸の自室。

朝から仕事に明け暮れていた兼続は、あと僅かで暮れようとする陽を浴びて柔らかな橙と紫に染まりはじめた晩春の庭を間近に眺めながら、ひとつ伸びをして大きく息をついた。

ようやく越後へ帰途の準備が整った。これで、予定違わず京を出立することができる。

昨年夏の小田原攻めを皮切りに、奥州、大坂、そして京と、兼続は景勝と共に日の本のあちこちを飛び回った。豊臣が理想とする天下治め、こと刀を持たぬ文化人にまで力をかけるやり方には未だ賛同できないが、主人の右腕として戦と政をこなす日々が、良きにつけ悪きにつけ兼続に多くの経験をもたらしたことは紛れのない事実である。もっと伏見に留まって、知識を吸収したいという思いはあった。

しかし、こうも長期間国を空ける日々が続くと、さすがに自領・与板の内政が心配になってくる。こまめに文を送ったり向こうの様子を聞いたりと手は抜いていないつもりでも、やはり土地に腰を据えて民の側にいなければできないことのほうが多いに決まっていると、兼続は常に信じている。

年が明けてから盛大に模様された花宴も先日無事に終わったことだし、しばらくはこちらに声がかかることはないだろう。秀吉が大陸に興味を示しているらしいという噂も耳にはしているが、できれば上杉など頼らずに豊臣の将だけで済ませてほしいものだ。

戸襖の向こうから石田三成様がお見えです、という声が聞こえたのは、京で集めた書物の整理でもしようかと、縁側を離れた兼続が積み上げられた一番上の一冊を開いたときだった。

すでに宵の口になろうとしている今時分に訊ねてくるなど、職務上のやり取りはすべて済んでいるはずだが何か言い忘れでもあったのだろうか。

書物を閉じて脇にやると、兼続は三成を通すよう指示をしてからやや間を置き、三人分の酒の支度を付け加えた。できれば昨日の、幸村たち四人と催したささやかな花宴の中で偶然見ることのできた、花吹雪を纏う三成を最後に京を立ちたかったという想いを胸の片隅から消すように努めて。

兼続の憶測に反し、上杉の屋敷を訪れた三成は単身だった。服装も普段に近いところをみると、公の訪問ではないらしい。

景勝様への挨拶を済ませた三成は、兼続の部屋に入ってくるなり無遠慮にその隅々を見回した。

「幸村はどうした」

酒の用意を終えた家の者が下がったとたん、兼続のほうを向いて問う。

「慶次と一緒にいるんじゃないのか」

ふん、兼続の答えに同じ視線のまま三成が鼻をならした。彼が露骨にこういう仕草をしてみせるときは、大抵状況が面白くないと思っているときだ。

「もうすぐお前が帰るのに、か」

自分が帰る直近に幸村と慶次が一緒にいることが、どうして不都合なのだろう。理解できずに兼続が不思議そうな顔をすると、三成はそれも気に喰わなかったらしく、今度は肩もろとも大きな溜息をついた。

「三成こそ、左近はどうした」

一つ余分になってしまった杯を脇にやりながら、今度は兼続が問う。

「俺一人では不満か」

普段と変わりない棘のある言葉の中に少しだけ拗ねたような響きが漂ったかと思えたが、おそらく希望を含む気のせいだろうと兼続は、寂しさを隠して笑ってみせる。

「いや、酒が余ると思ってな」

差し出された大きめの酒器を眺めて、また三成が鼻をならした。

「昨日はお前ら酒飲みに譲っただけだ」

傍に腰を下ろすと、軽々と酒器を持ち上げて目の前に置かれた部屋主の杯に注ぐ。継いで満たされた自分の杯をひと息に干した三成に兼続は、無理をするなと茶化してみせた。

空には、朧月がかかっている。

そういえば、三成とはなから二人きり、隣り合わせで杯を傾けるのは初めてかもしれない。春独特の美しく柔らかい光を眺めている端正な横顔を見ながら気が付いた事実に、兼続は京を発つ寂しさも手伝って、つい、想い人を魅入ってしまう。同時に、もう花追いはしないと決めたというのに情けないと、自戒を込めて己にわずかに眉根を寄せた。

今夜の三成はいつになく杯を空ける調子が早く、酒盛りを始めてから驚くほど刻は経っていないというのに生来の弱さも手伝ってすでに少し顔を赤くしていた。おまけに、酔いが回っているせいか本来の彼よりも多弁になっている。

「ずいぶん慌ただしく帰るのだな」

いくつかの話題がすぎたあと、兼続の酌を受けながら三成が尋ねた。

「今から発てば、与板の桜に間に合うやも知れんと思ってな」

本当は公私ともに別な理由があるのだが、あえて自領への思慕を前面に押し出した物言いをしてみる。

「そうか」

与板を佐和山に照らし合わせてみたのか珍しく神妙な顔で納得した三成だったが、ふと何かを思い出したらしく表情を戻して兼続のほうを見た。

「花といえば、昨日の酒宴で面白いことを言っていたな」

視線を手元の酒器に手酌で酒を注ぐ。

「地に落ちる前に花弁を手に収めれば、想いが伝わるとか何とか」

花追いの話かと短く返した兼続の言葉に、くだらぬ話だと思うが、と前置きをして三成は杯を煽った。

「諦めたなどと言っていたが、まさか想いも伝えていないんじゃないだろうな」

杯を注ごうと伸ばした兼続の手を制して、三成はまた自分で酒を注ぐ。酒器を持ったまま促されたので、こちらも残りの酒を空けた。

「確かに、伝えてはいない」

お前らしくもない、そう言いながら三成は空にさせた兼続の杯に再び並々と酒を満たす。

「言うだけ、言ってみたらどうだ」

再び満たした杯を煽り、ひとつ息をついてから兼続を見る。

「普段から声高らかに義だの愛だの臆することなく口にしているお前なら簡単だろう」

多分にからかいを含めようしているものの、生来の真面目さが邪魔をしているのか響きは気持ちぎこちない。加えてこちらを覗き込む瞳から察するに、三成なりに兼続の恋路を励ましてくれているらしかった。その他意のない姿に、今ここで言えてしまったらどんなに楽かと、咽まで出かかった声を兼続は辛うじて杯で塞ぐ。

しかし動揺を隠した素振りに気が付かない三成は、さらに追い打ちをかけた。

「幸村には、前田よりお前のほうが似合いだ」

想い人の予想だにしたかった言葉に、あやうく兼続は口に含んだ酒を噴き出しそうになった。慌てて咽へ流し込んだ酒にむせる様子に、三成は自分の勘が正しかったと確信してしまったらしい。

「少なくとも、俺はそう思うぞ」

自身の言葉に満足そうに頷きながら、置かれた兼続の杯に酒を注ぎ足した。

そうか、それで。

先ほどの呆れ顔と溜息とを思い出し、ようやく兼続は一連の所作に納得をした。自分の気持ちが三成に全く気が付かれていないことに関しては安心よりも寂寥が勝ったが、部屋に来てからの不機嫌さの原因は自分を心配してのことだったということに、兼続は無意識のうちに頬を緩めてしまう。

「何が可笑しい」

うっかり上がった口の端を目ざとく見つけて、三成がむっとする。

「すまない」

言いながら、それでも何か可笑しくて兼続は笑いを堪えることができない。杯を片手にくすくすと、しばらく肩を震わせ続けていた。

そんな親友の様子にしばらく口を尖らせていた三成だったが、やがてふっと目元を緩めた。

「まあ、今夜だけは月に免じて許してやる」

夜空を見上げた角度で顔を向けせた三成が柔らかく微笑んだように見えたのは、たおかやな月明かりと酒のせいかもしれない。

もう少し。

もう少し、この人を想っていたい。

彼に頼もしい想い人がいることは承知しているけれど、自分の気持ちを欺くことはできない。

酒を注ぐついでに、三成の長い睫毛と朱のさしたほろ酔いの顔を盗み見る。酒に濡れたその唇に触れたら、この白い肌はもっと紅くなるのだろうか。

飲み始めよりわずかに冷たくなってきた夜風が、縁側に座した二人の、柔らかい三成の髪と癖のない兼続の髪をさわさわと撫でていく。

「本当に、美しい月だな」

しみじみと呟いた三成が目を細める。

「ああ」

微笑みを供にして兼続も静かに仰ぐ。

京の夜空にかかる朧月を、いつか再び二人で見上げたいと願いつつ。

2006.3.17

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話の流れは『桜追い』の続きになっています。

知らないところで両思いな二人です。

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