『前夜』(東京湾臨海署安積班:村雨×須田)

警察官になった時点で世の中の行事を存在しないものとしたとは、上司である安積剛志係長の言葉だ。

12月24日、クリスマス・イブの21時半過ぎ。須田三郎は、後輩の黒木和也と2人で職場の机についている現実につくづくその言葉の正しさを噛みしめていた。

須田の勤め先である東京湾臨海署は、その名の通り東京湾を臨むお台場の一帯が所轄となっている。かつては殺風景な埋め立て地だったお台場は、今や一大娯楽施設がひしめき合う観光地でありデートスポットとしても名高い。特にこの時期はクリスマスイルミネーションの効果もあるせいか、いつにも増して家族連れや恋人たちの笑顔が行き交っている。臨海署が位置する場所は繁華街と若干の距離があるためきらびやかとはほど遠いが、台場や青梅の周辺は別世界のようにその付近一帯がきらきらしている。常に犯罪と向き合っているこの刑事部屋の雰囲気とは実に対照的だ。

とはいえ須田は、この状態が嫌だとか逃げ出したいなどと考えているわけではない。むしろ、自分たちが支えているぶん誰かが大切な人と安らげるのであればそれはとても意義のあることだし、それが正に自分たち警察官の存在価値であり誇りだと思っている。

ただし、隣で黙々とラップトップに向かっている黒木に対しては、若干別のことを考えていた。

黒木は29歳、安積係長率いる刑事課強行犯第一係、通称安積班のなかでは26歳の桜井太一郎に次いで二番目に若い。浮世と隔絶された刑事の現状を嘆いても許される年齢だ。しかし、超がいくつ付いても足りないほど真面目な黒木は、文句ひとつ言わずに今日、クリスマスイブの当直を、いつも通りにこなそうとしている……最近、恋人に近い間柄の相手ができたようなのにもかかわらず。

「黒木」

「はい」

間髪入れず目線と共に返ってきた応答に苦笑して、須田は時計を指した。

「飯行ってきなよ。留守番してるから」

黒木が口を開く前に、須田は大袈裟に手を振ってみせる。

「昨日も一昨日も仕事の前で食事してただろ? だから今日は出前禁止。ちゃんと休憩しないと」

机から離れるために、せめて外へ買い物に行ったらどうか。須田の提案を最初は辞退した黒木だったが、再度の促しには素直に腰を上げた。

「俺のことは気にしなくていいからなー」

黙っていると果てしなく気を遣う黒木の背中に釘を刺す。相手にメールの1本でも送る余裕ができたかなと思いながら、須田はまたパソコンの画面に向かい合った。未記入の報告書も未整理の書類も未調査の資料も、まだまだたくさんある。

と、10分もしないうちに刑事部屋に近づいてくる足音が聞こえてきた。署からいちばん近いコンビニまで、黒木が走れば片道5分はかからない。少しはゆっくりすればいいのにと溜め息をついて立ち上がった須田の目線の先、出入口から入って来たのは黒木ではなく、自分と同じく部長刑事として安積班に所属する村雨秋彦だった。

予想外の人物に思わず目を丸くした須田同様、村雨も立ち上がっていた須田に相当驚いたようだ。だがさすがというべきか、すぐに我を取り戻し刑事部屋をぐるりと見回した。

「須田一人なのか?」

当直の黒木はどうしたんだと、軽く寄った眉間が語っている。慌てて須田は否定の身振り手振りをした。

「俺が夕飯がてら外に行かせたんだよ。ほら、あいつそうでもしないと机から動かないし」

須田の考えなら正しいと判断してくれたのか村雨は、軽く了承の頷きをして留守の間机に積まれたメモの束を手に取った。

「ハンチョウたちは?」

今度は須田が、村雨が一人の理由を問う。村雨は確か、未明に起きたビーナスフォート付近の雑貨店押し込み強盗捜査のために、安積係長と安積班紅一点の水野真帆巡査部長、村雨が組んでいる桜井との四人で、朝早くから事情聴取と聞き込みに行っていたはずだ。

「係長の判断で各自解散になった。だいぶ風が強くなって冷えてきたし、もういい時間だったしな」

自分が行事を顧みないからといって部下にもそれを強要しないところは、安積係長の人間性をよく表している。21時付近まで外回りをするなど普段なら決して遅くない時間なのに、今日のこの日を重んじて、気候の変化を表向きの理由に早めの解散を決めてくれたのだろう。そして、署と目と鼻の先にある独身寮住まいの桜井を先に部屋に帰し、自分一人戻って来て今日の成果をまとめようとしている村雨もまた、係長に負けないくらい部下思いなのだ。一緒に刑事部屋へ戻ろうとしたであろう桜井に対して、休めるうちに休んでおけとか健康管理も仕事のうちだとか、堅苦しい言葉で優しい命令を下したに違いない。

「須田はまだ帰らないのか?」

須田の微笑みの意味に気がついた村雨が、話題を変える為か照れ隠しの咳払いと共に問いかける。

「黒木が戻って来たら帰るよ」

でもまだ調査したい案件があって……、言いかけて手元の資料に目を落とそうとした、ほんの少し前。

須田は、村雨が一瞬だけちらと刑事部屋の出入口に目を向けたところを捕らえてしまった。

「黒木が外に出たのは?」

「20分くらい前かな。もうそろそろ戻ってくると思う」

そうかと短く呟く声はいつもどおりだが、やはり心なしかそわそわしている。そんな村雨の様子に、須田は何かを察して必要以上の茶化し口調とおどけた動作を使ってしまった。

「村チョウは早く帰らないとまずいんじゃないの?」

先ほど黒木にしてみせたように時計を指し、笑顔のままで問い返す。

「俺と違って独り身じゃないんだし。終電まではまだ1時間以上あるけど」

「今から帰ったって家族はもう寝てるさ」

苦笑して書類に目を落としはしたものの、やはり村雨は刑事部屋の出入口に意識を向けている。

もしかして気を遣わせているのかな。急に申し訳なくなった須田がもう一度帰宅の話題を振ろうとした頃合いと、村雨が機を見計らったかのように鞄を開けて地味な色合いの袋を取り出したのは、ほとんど同時だった。

一見だけではよくわからないそれを、村雨は迷うことなく須田の前に差し出す。

「え、何?」

受け取りながらも、須田が浮かんだ言葉を疑問符付きの表情と共にそのまま告げると村雨は、再び軽い咳払いをして言った。

「今日は12月24日だろう」

……もしかしてクリスマスプレゼント?」

村雨の頷きを前に、須田の表情がぱっと明るくなった。

「中、見てもいい?」

「大したものじゃないぞ」

心配そうな村雨を余所に宝箱を手に入れた子どもような仕草で包みを覗き込んだ須田は、取り出した中身を目の高さまで掲げて嬉しそうな声を上げた。

「ちょうど欲しかったんだよね、軽い折り畳み傘。傘は年中持ち歩くからすごく助かるよ」

ありがとう。須田が村雨に満面の笑みを向ける。言われた村雨は、気に入ってもらえたことに安心したらしく照れというより安堵の笑顔を見せた。

時計の針が22時を過ぎようとしている。もう間もなく、黒木が戻ってくるはずだ。

「よし、お礼にご馳走するよ」

何も用意してなかったし。丁寧に包み直した新品の傘をしっかりと手に持ち、須田が言った。

「村チョウ何食べたい? どこにする?」

「今夜はどこも混んでるんじゃないのか」

「新橋まで出ればそうでもないと思うけど。お寿司とか焼き肉とか……蕎麦って手もあるね」

検索画面を前に思案顔でキーボードを叩く須田をじっと見つめていた村雨だったが、やがてひとつ息をつくと須田の背後に回り、愛嬌のある丸い両肩を包みこむようにそっと手を置いた。

「コンビニ飯と缶ビールがいい」

「それって俺の部屋でいいってこと?」

そんなの申し訳ないよと困り顔をする須田に、村雨はゆっくりと首を振る。

「「で」、じゃない。須田の部屋「が」いいんだ」

それだけ言って強く頷くと村雨は須田の傍を離れ、いつも以上に手早く帰り支度を始めた。

「………」

てきぱきと片付けをこなす村雨の姿をしばらく眺めていた須田は、ややあってにっこり笑うと静かにパソコンを閉じ、自分の鞄を引き寄せた。

「何だか黒木に悪いなあ」

コートを羽織っていち段落、須田がぽつりと罪悪感を口にした。これからの予定が嬉しい反面、一晩中一人で当直をこなす予定の後輩には、それが彼の職務だと頭ではわかっていてもどうしても申し訳なさを感じてしまう。

「そうでもないと思うぞ」

意外なほどあっさり言い放った村雨に須田が首を傾げかけた矢先、二つの足音が刑事部屋に響いてきた。

「あれっ、村チョウまだいたんですか?」

ドアを開けるなり驚きの声を上げたのは、現地から帰寮したはずの桜井だった。手には白いビニール袋を持っている。その隣には、やはり同じような袋を下げた黒木がいた。

「コンビニで偶然会ったんです。せっかくだから夕飯だけでも一緒にと思って」

クリスマス・イブですからね。若者らしく行事を重んじた桜井の発言に表立って同意はしないものの、黒木も嬉しくないわけではなさそうだ。自分の心配はすべて杞憂だったなと、須田はほっと胸を撫で下ろした。

臨海署を一歩出た途端、冷たい海風が吹きつけてきた。

「今夜も冷えるねえ」

短い信号待ちの間、身を縮めて手に息をかけながら須田が言う。

「やっぱりどっかの店で暖かいもの食べようよ」

しかし村雨は、須田の懇願に近い提案に軽く眉を寄せてから拗ねたような口調で呟いた。

「店に入ったらゆっくりする時間が短くなるだろう」

その、普段の村雨からは想像もつかない子どもじみた言い方に、須田の頬が無意識のうちに盛大に緩む。

「結構我がままだよね、村チョウ」

堪えきれずくすくすと笑い出した姿に抗議の咳払いをされても、肩の震えはなかなか止められそうにない。

凍るように寒いクリスマス・イブの夜。東京湾臨海署の部長刑事が二人、コンビニまでの道のりを楽しそうに歩いて行く。

尽きることのない話題を、白い吐息に変えながら。

2012.5.6 ine様へ。

# 2012.5.8 微修正

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