『きつね』(兼続と狐と三成)




昨晩の雨がきれいに上がり、この春一番の晴天となったある日。

北の地の短い春の日をふんだんに浴びながら兼続は書を読んでいた。

屋敷の縁側に机台を設置し、姿勢こそ崩さないものの、のんびり茶なぞも飲んでいる。


先の小田原攻めで豊臣の天下はもはや揺るぎないものとなった。上杉としても戦にかまけていた分、早急に内政の遅れを取り戻す必要があった。上杉の重鎮としてその内政を一手に引き受けている兼続にとってはつい先頃まで驚くような忙しさだったのだ。目の回るような生活が続いた後の、ようやく手に入れた休暇だった。


もう少し暖かくなったら田舎者なりの野立てをしてみようか、そんなことを考えながらふと庭に目をやると、風もないのに木立ががさりと音を立てる。

はじめ、兼続は猫の仔でも迷い込んだのかと思った。家臣のなかには番犬や狩猟のお伴として犬を飼っている者が何人かいる、うっかり屋敷内に入ってしまった猫はそんな犬たちに追いつめられて、時折庭の隅で小さくなっていることがあった。

兼続は猫も犬も嫌いではない。今日もまた表へ逃がしてやろうと、素足に草履をつっかけて庭へ出る。

乾ききらない草木に裾と足を濡らしながらしばらく、木立の中を覗いて兼続は驚く。そこには犬猫ではなく、まだ幼い子狐がいた。

見れば、小さな後ろ足から血を流してる。麓近くで怪我をして、奥ではなく里へ下りて来てしまったようだ。春先は冬眠明けの熊が出る、まったくの逆方向に逃げてしまったことを考えると、空腹の熊にでも襲われて、命からがらだったのだろう。

放っておくわけにもいかず、兼続は子狐を抱き上げる。昨日の雨のせいか子ギツネの体は湿っていて冷たく、兎のようにカタカタと震えていた。

しかしそこは野生というべきか子狐は、本人にその気がないにせよ保護されて怪我までしているというのに、震えながらも兼続の腕の中で小さく威嚇の唸り声を上げていた。

「大丈夫だ、私は何もしないよ」

まるで人間の子供に言い聞かせるように兼続は話しかける。意思が伝わったのか屋内に入ったから観念したのか、心なしか子狐の硬直が解けたような気がした。


家の者に頼んで切り傷に効く薬草と水、手拭と、犬用の飯を用意させる。何かを察して逃げ出そうとする子狐を腕で押さえて膝に抱いたまま、片手と口で手拭を適当な大きさに裂き、薬草を包んで血の滲む足に素早く巻く。キャン、と高く啼いたところをみると、少ししみたらしい。あんまり暴れるのでその手を離すと、一目散に机の奥へ滑り込み、顔だけ出してこちらを見つめる。

「そんなに痛かったか、悪かったな」

お詫びの印に飯の盛られた粗末な皿をそちらに向けたが、子狐は体の震え以外は微動だにしない。

そのうち来るだろうと兼続が構わず先程から中断していた読書を始めると、じわじわ皿のほうに近寄って来た。はじめのうちは飯を舐めては兼続の方を見、しばらくしてまた飯を舐めることを繰り返していたが、兼続が近寄ってこないことを確信すると、かちゃかちゃ音を立てながら食べ始めた。そのうち、広げておいた手拭に体を擦りつけて、器用に毛皮を拭き始める。大したものだと眺めていると、気配を察してまたひょこひょこと机の下に逃げ込む。その隙に濡れた手拭を兼続は変えてやる。少しの間、一人と一匹はその繰り返しをしていたが、やがて体も乾いたのか、子狐は机の下で目を閉じ、丸くなって動かなくなった。

机の下を覗き込むとまた起きてしまうだろうから、耳を澄まして呼吸だけ確認してやる。規則正しい寝息に何とも無邪気なものだと兼続はひとりごちた。


子狐はそうして一日机の下に居た。夜食事を済ませて部屋に戻って来ても、まだその場から動いていない。

さすがに心配になって覗き込むと、逃げはしないがやはり小さく体を震わせていた。抱き上げて膝に乗せるとその弱々しい震えが伝わってくる。越後とはいえ今は春、このままでも死にはしないだろうが足の怪我が痛々しく、冷えた体がなんともかわいそうに思えてきた。一緒に布団に寝ることも考えたが小さい狐のこと、夜中にうっかり押しつぶしてしまうかも知れない。結局兼続は一晩中膝に手拭で包んだ子狐を抱いたまま夜を明かしてしまった。


子狐はみるみるうちに元気になった。はじめのうちは初日と同じ調子で飯を食べていたものの、徐々に警戒心を解き、兼続が呼ぶとひょっこり顔を出すまでになった。もともと動物は嫌いではない、懐かれるとやはりかわいくなってくるもので、廊下をかけさせたり鞠を放ってやったりと、暇があれば構ってやっていた。狐のほうもここが気に入ったらしく、庭へ繋がる廊下へ出ても外へ行く気配がない。ときには自ら鼠を捕って兼続に褒められにきたり、休日に兼続が縁側で書を読む横でのんびり日向ぼっこをしていたりもしばしばだった。


野生の動物が人間に懐いてしまうことはあまり良くないことと分かってはいたけれど、このまま子狐が居着きたいのであればそれでもよいかと兼続は思っていた。戦のある日は家の者に面倒を見てもらえばいいし、何だったら連れて行くのも面白いかもしれない。ぼんやりとそんなことを考えていた。


短い春が終わり、ちょうど桜が散り始める頃だった。兼続が仕事を終えて部屋に戻ってくると、子狐は縁側で、真っ直ぐ背筋を伸ばしてじっと向こうを見ていた。微動だにしないその視線の先を見ると、庭の向こうから、子狐よりもふた周りほど大きな狐が、じっとこちらを見ていた。大きさからしておそらく雄であろうか、よく見ると目の下に傷がある。痩せていて、ひどく痛々しい。しかし雄狐は兼続の気配に気が付くと、一声高くケンと鳴いていつの間にか姿を消していた。


その日から子狐はどこどなく元気がない。兼続の顔を見ればちょこちょこと寄ってきて膝に座りはするものの、以前のように真っ先にじゃれてくることはなかった。時折寂しそうに庭を見、いつしか兼続のそばで眠ることもなくなっていた。そんな姿にちくりと胸が痛むのは、たぶん狐と誰かを重ね合わせているせいだろう。

「……帰りたいか?」

語りかけても子狐は当たり前だが何も言わない。けれど彼なりに何か考えてはいるようで、兼続が寂しそうな顔をすると寄ってきてその手を舐めることもあった。


離れるのが平気だと言えば嘘になる、けれど寂しそうな面持ちを見ているのも辛い。いっそ山へ連れて行って置いてきたほうがよいのではないかと逡巡したが、やはり離れがたくてそのままにしていた。


ある日、いつものように縁側で子狐を膝に読書をしていると、ついにあの狐が現れた。今度はちっとも痩せておらず、前に見たときよりもさらに一回り近く大きく見えた。雄狐はじっと兼続を見てしばらく、甲高くケン、と一声啼いた。

その声を聞くや、子狐はぽーんと兼続の膝を蹴り、今まで出ようともしなかった庭へ足をつける。しかし何故か途中ではたと立ち止まり、つぶらな瞳でこちらを見た。

「お行き」

優しく兼続が言うと、俊敏な動きで木立に消えて行った。去り行く間際に二匹がお辞儀をしたように見えたのは気のせいだったかもしれない。





「……というようなことがあった」

酒の席で一部始終を話すと三成は珍しくふんふんとこちらの話を聞いていたが、最後のお辞儀に関してだけは、絶対にお前の思い込みだと断言した。

「まあ、短い間だったがかわいいものだった」

「寂しいのか」

「そりゃな」

狐一匹居なくなったことをさらりと寂しいと言い、心底悲しそうな顔をする武士がいったいどこにいるというのだ。まったくという顔をして三成は腰を上げると、兼続のそばに行って膝の上に座った。

驚く兼続の顔を、反り返って仰向きざまに見る。

「佐和山の狐で我慢しろ」

ただし連れ帰るのはなしだ、そう言ってそのままそこで酒を飲む。

我慢もなにも。佐和山の狐もどこかの雄狐のもとに帰って行くだろうと、言いかけて止めた。今は彼の好意に甘えるとしよう。


子狐を佐吉と呼んでいたことは、自分の胸に閉まって。



2006.4.8

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某様たちとのチャットで思いついた話です。無駄に長くなってしまいました。

お読みくださりありがとうございます。


ちなみにこのあと、酒席に合流した幸村に「佐吉逃げちゃったんですねー」と悪気なく言われて慌てる兼続なのでした。

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