「紙入れ」




行灯の明かりが、兼続の目の前に置かれた漆塗りの酒器と杯を照らしている。

こんなところに居てよいのかと思わぬわけではなかったが、手紙の誘いにのった段階ですべて言い訳にしかならない。


「お泊まりになっても構いませんよ」


笑いながら手酌で杯を満たす左近は、兼続が昨日もこの屋敷に泊まったばかりだということを知っている。


「今夜はお戻りになりませんし」


その話は昨夜三成本人から聞いた。秀吉様のところに皆が集まっているから明日は終日屋敷を空ける、おそらく明け方まで宴会になるだろうと、面倒そうに言っていた。


「しかし、やはり……」


杯を片手にためらってみるものの、帰る気がないことは相手にお見通しだろう。


「いいじゃありませんか、たまには」


すうと伸びる指と左近の息が、頬にかかる。そのままあと少しで触れようとした互いの唇は、夜にしてはだいぶ乱暴な駆け足に遮られた。


「左近様!」


戸襖の向こうで声を上げたのは、この屋敷の小姓頭。

面倒くさそうに表を向けた左近と、それに倣った兼続の耳に届いたのは、一番聞きたくない報告だった。


「殿がお帰りですっ」


予想だにしなかった言葉に、左近も兼続も動きを止めた。が、次の瞬間我に返ると同時に羽織を着ると、兼続は自分が口を付けた杯を掴んで空にしてから懐に押し込み、襟を正して手落ちがないか素早く辺りを見回す。

左近もさすがと言うべきかすぐに落ち着きを取り戻し、はしこい小姓頭から兼続の草履を受け取ると、裏木戸へ案内するよう即座に指示を出した。


「私が少し引き延ばしますから。その隙に直江殿は裏からお帰りください」


そう言い残して左近は瞬く間に玄関のほうへ向かって小走りに行ってしまった。


それは、あっと言う間の出来事だった。

ようやく兼続がひと息つけたのは、石田邸から上杉邸に向かう、最初の辻を曲がったところだった。


やはり、悪いことはするものではない。


今こうして無事に屋敷を出られたものの、あのまままごついて三成と居合わせたらと思うと、その先は恐ろしくて想像がつかないし、したくない。もうこの上洛中は務め以外は大人しくしていよう、そう胸に誓いながら兼続は上杉屋敷への夜道を歩きながら再度己を確認した。


羽織は着ている。足袋も履いている。草履も間違っていない。杯は持ったし帯はまだ緩めていなかったからいいとして。忘れ物は、何もないはずだ。


が。


ふと、兼続は、自分の紙入れを思い出した。あれに誘いの手紙を入れたまま、左近の部屋ならぬ三成の屋敷に向かったはずだ。確か部屋の前で懐に閉まったと記憶していたが、先ほど杯を押し込んだときにその感触があったかどうか思い出せない。

恐る恐る、兼続は杯を取り出してから、その奥へ手を入れた。


——— ない。


紙入れが、ない。


懐にも、袂にも、帯にも、ない。


落として来た。


「…………」


あまりの出来事に、兼続は一瞬気が遠くなった。


あの紙入れは、山城守になったとき三成が祝いにと自分に贈ってくれたもので、表に直江の紋が入れてある。それでなくても贈り主と揃いの素材で設えられたそれは、本人が見たら一発で誰のものか分かるだろう。


昨日の訪問には紙入れなんか持って来ていなかったことは三成もよく覚えているはずだ。それなのに紙入れを見つけたら、自分が終日屋敷を空けていると知っている兼続が夜左近の部屋にいたことが確実にばれてしまう。


何で兼続の紙入れがお前の部屋にあるんだ、なんだ、中に手紙が入ってるな、おいそれを見せろ左近………という流れになっていたら………。


この上ないほど深く、兼続は溜息をついた。

正直に謝まれば許してくれるだろうか。……いや、自分の浮気だけならまだしもその相手が左近となれば三成は絶対に許してはくれまい。豊臣と上杉の関係が悪化するまでには至らないだろうが、一生涯伏見に近寄れない可能性は多いにある。佐和山もしかり、下手をすると大坂にも足を踏み入れられなくなるかもしれない。


いっそ、今すぐ越後へ帰ってしまおうか。やりかけたことは多々あるけれど、代理で済む程度の用事しか残っていなかった気もする。しかし、一足先に越後へ戻りたいと景勝様に言ったら、何と申されるだろう。何より、黙って帰ったら三成は怒るに違いない。


ひょっとしたら、三成が紙入れに気が付かなかった可能性もある。運良く左近なり小姓頭なりが先に見つけて隠してくれたかもしれない。その状況がないとは言えない。それなら、帰ることもない。


いやしかし、見つかっていることを考えるとやっぱり三成には挨拶なしですぐに京を離れたほうが安全ではないだろうか。会わずにいれば何となくうやむやになって次の上洛にはもう忘れてくれているかもしれない。いや、でも、やっぱりそれは三成への義に反するか………。


上杉邸には無事到着したものの、そんなことを考えながら兼続は、一睡もできぬまま夜を明かした。



翌朝、兼続は越後への帰り支度を家臣に指示してから三成の屋敷に向かった。


一晩考えて、結局紙入れを取りに行くことにしたのだ。


黙って帰ってしまうと何度も考えたが、これ以上不義を重ねるのは自分としても不本意だ。もし三成に事が知れていたら、すべて正直に話して謝ろう。嫌われても仕方がない、自分はそれだけのことをしたのだから………。


—— と覚悟を決めて来たものの。いざ屋敷へと近づくと足どりは徐々に重くなる。朝の弱い三成はまだ起きていないだろう、とりあえす左近に会って紙入れの所存を聞くことができればよいのだがと、切なる願いを込めて門をくぐった瞬間、その期待は、すぐさまに消えた。


三成がいた。しかも、一人で。


こちらも驚いたが、三成も意外そうな顔をして兼続を見た。

それはそうだろう、こんな朝早くに呼んでもいない人間が来るなど驚くなというほうが難しい。


「早いな」

「それはこっちの台詞だ。なんだ、こんな朝から」


見上げる眼差しを辛うじて受けながら、兼続は心の中で深呼吸をする。


「実は、今すぐ越後に帰ろうと思う」


突然の申し出に案の定三成は動きを止めた。しかし理由を問う前に、その顔が見る間に不機嫌になる。


「………茶道具の見立ては、面倒だから俺一人でやれと?」


そうだ、今度の豊臣主催の茶会の準備を手伝えと言われていたのをすっかり忘れていた。


「紅葉狩りの下見にも、付き合う気がないんだな?」


それも、忘れていた。


「いや、そういうわけじゃないんだが……」


約束を反故にするのだから納得できる理由を言えと詰め寄る三成は、自分の合点がいくまで兼続を越後どころか上杉の屋敷にすら帰さない勢いだ。

三成がこうなったら曖昧にはぐらかすのは絶対に無理だ、兼続はそれをよく知っている。とはいえ正直に言ったところで事態が好転しないことは火を見るより明らか。


どう言えば三成の気が削がれるか。

考えたあげく兼続の口をついたのは、言った兼続本人でさえも驚くような言葉だった。


「色街でしくじったんだ」

「……お前が?」


意外な単語に興味を示したらしい三成に罪悪感を覚えつつ、兼続は作り話の次第を話す。伏見滞在のときいつも指名するなじみの遊女がいない間に、彼女の妹分と寝てしまったと。そのとき、店に紙入れを忘れてきたと。


「———で、その紙入れの中に妹分からもらった誘いの手紙が入ったままだと。あの、直江の紋が入ったやつに」

「ああ」

「一発で、お前だとわかるな」

「そうだ」

「ぞっとしないな、それは」


………兼続も、心底そう思っている。


本来であれば遊女の一人や二人、裏切り遊び歩いたところでおおごとになることはない。しかし、ある程度身分の高い者がそのような失態を招く事自体は主家への恥、ひいてはそれを召し抱える豊臣の恥である。


「聞いたか左近」


二人の声を聞きつけて門のほうへ来たらしい左近を気配で察した三成は、左近が近づく前に振り向き様声をかけた。


「兼続が色街でしくじったそうだ」

「おや、それはそれは。直江殿も隅におけませんなあ」


事の次第を三成が左近に話している間、兼続は隙を見計らってすがるように左近を見た。左近はそんな兼続に気が付きつつ、たまに目配せをしながら三成の話を聞いていたが、話の一部始終が済むと大笑いしてあっさりこう言い切った。


「ま、大丈夫でしょう、何の心配もいりませんよ」


どういうことだと三成が問うと、笑いまじりで、しかし目を丸くしている兼続には意味ありげな視線を送りながら、左近は言葉を続ける。


「直江殿は真面目でいらっしゃるから気をもまれるのも無理はないと思いますがね。……いいですか、姉御の留守に客を寝取ろうっていう抜け目ない女ですよ、忘れ物がないかなんてのは念入りに確認するもんです、相手の紋が入ってる「紙入れ」なんかは、特、に」


その言葉に反応した両の目に、左近はわずかに目で頷いてそのまま言葉を続ける。


「大方見つけた後は手際よく姉御の目に触れないところにすぐに隠してくれたと思いますよ。ええ、きっとそうでしょうなあ。おそらく中身を処分してから人目を避けて上杉の屋敷に届けるよう、明日あたり小僧か何かを寄越すんじゃあないんですかねえ」


その言葉を聞いた兼続は、ほーっと安堵の息をついた。生涯でこんなに安堵したことは未だかつてないんじゃないかというくらい、全身から力が抜けていく。


紙入れは確実に左近の手元にある、言葉どおりならば明日には無事戻ってくるだろう。


緊張の解けた目で三成のほうを見ると、左近に向かってお前はくだらんことに詳しいなと突つきはしたものの、何にも気づいていないようだ。

念のため予定より早く滞在を切り上げるつもりではいるが、これで見立てにも下見にも付き合える。何より罪悪感を抱えながらこれからの日々を過ごすことにならなくて済んだのが兼続には嬉しかった。それはたぶん、左近も同じ気持ちであろう。


「ま、よっぽど気がかりなんであれば姉御遊女に花簪でも贈ってやったらどうですか。なに、女なんてのは贈り物ひとつですぐに機嫌を直しますよ。ねえ、殿」

「そうだな、女は飾りものが好きだからな、だが」


滅多に見せない微笑みを見せて三成は、しかし次の瞬間がしりと二人の着物を掴んで言った。



「俺の機嫌は花簪じゃ直らないけどな」




2007.1.31


———


くだらない思いつきにお付き合いくださりありがとうございました! ここまで読んでくださった方には本当に感謝しています。大好きな艶話なので、一回やってみたかったのです。


落語での役柄は以下のとおりです。あらすじおよび新さんの職業は、立川談志師匠の「紙入れ」を主軸にしました。


貸本屋の新さん…兼続

得意先の旦那……三成

おかみさん………左近


なお、実際のサゲには「旦那気付かない編」と「旦那本当は気付いてた編」の二種類があるようです。今回は後者に倣いましたが、実際に見聞きしたのでは前者しかありません。落語に出てくる新さんは若くて男前という印象があり、一番好きな登場人物です。

あーー、寄席行きたいっっ。


最後にもう一度。

ここまでお読みくださり、ありがとうございましたーーーっっ。







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