『一華草』(兼続×三成)
眼前に咲く白い花の名は何だったか、幾度か聞いたはずなのに忘れてしまったなと、笠に水のあたる音を聞きながら三成は思う。あたりは日暮れ前にもかかわらずしんと静まりかえり、昨晩から降り続く冷たい雨が春の庭を濡らしていた。
明日の早朝、三成は長年親しんだ伏見を去り、自領佐和山に帰る。出立の準備はすでに整っており、自分が馬に乗ってしまえば屋敷以外は何も残らなくなるといっても過言ではないほど一切を片付けてきた。現在、石田邸の敷地内に人影はほとんどなく、かつての活気が嘘のように閑散としている。
そしてここ、伏見の直江邸も。
あれは自分の大陸行きが決まった直後の、月の綺麗な夜だった。
『お前が死んだら、私は生きていけないやも知れん』
長い船旅を案ずるさなかに兼続がふとそんな言葉を漏らした。
『ずいぶんと女々しいことを言う』
相変わらず恥ずかしい奴だと、照れを隠して鼻を鳴らす。
『だが、本心だ』
たとえ女々しくても。そう言って兼続は、秋の宵に冷えた肩を胸に抱き髪に顔を埋めて囁いた。
『愛している、三成』
温かく包み込んでくれる腕と、それに身を委ねる穏やかな至福。
そのすべては、今、永遠に失われてしまった。
深夜の京に突如起こった、七武将の襲撃。
『私がいる限り、三成には触れさせぬ!』
闇に蠢く敵に退路を塞がれたとき、兼続が叫んだ。
『三成! 私が奴らを引き付ける、その隙に行け!』
『兼続……! 死んではならぬぞ、絶対にだ!』
それが、互いに交した最後の言葉になった。
敵中を切り抜け辿り着いた先で三成を待っていたのは、血にまみれて横たわる変わり果てた兼続の姿だった。
忍、それも相当な手練の仕業だと、兼続の刀傷を見た前田慶次の低い声は未だ三成の耳奥に深く残っている。こんな刺客を放つことができるのは、この伏見にただ一人しかいない。しかし、確たる証拠のない状況では、その家康から先の騒動に対する責任を問われ佐和山への蟄居を言い渡されても三成になす術はなく、黙ってその指示に従うほかなかった。
けれど。
月明かりの中、兼続の膝に乗ったまま自分はきっぱりとこう言った。
『俺はお前の後は追わんぞ』
のけ反って見つめた瞳の、少し寂し気な様にわざと呆れて肩をすくめて。
『共に倒れてしまったら、義の世が築けないからな』
普段の言動を揶揄したつもりだったが兼続は、しばらく考えたあと確かにそうだと微笑んで、強くこの身を抱きしめてくれた……
「……兼続」
優しくて温かいあの腕は永遠に失われてしまったけれど、彼が教えてくれた心はこの胸に焼きついている。
「俺は、お前の後は追わない」
顔を上げ、三成はあの時の言葉を今一度、遠い空へと投げかけた。
「お前の志と共に生きて、数と力の支配を終わらせてみせる」
きつく唇を噛み締めて握った拳に宿るのは、このまま引き下がるまいという強い決意。多勢に無勢は百も承知、再びこの地を踏みしめることはないかも知れない、それでも前に進むと誓う。
本当はずっと傍に居てほしかった。二人一緒に歩んで行きたかった。
それが叶わぬ願いだというのなら、せめて。
「俺に、力を貸してくれ」
兼続……。
頬を伝う雨も涙も拭わずに、三成は天を仰ぎ続けている。
二度と戻らない主を待つ、この春の庭の一華草のように。
一万打御礼リクエスト ひぐち様へ
2009.2.20 海