『隙間』(東京湾臨海署安積班:桜井×黒木な大橋×黒木)




朝の時点での天気予報は、今日一日大気が不安定であることを告げてはいたが、目の前の豪雨は「大気が不安定」の範疇を越えているのではと、黒木和也は考えていた。

「参りましたね」

ようやく見つけた仕込み閉店中の飲食店の軒の下、大橋武夫が突風で骨がひっくり返った傘を眺めて呟いた。

黒木同様、室内より屋外に出ていることの多い刑事という職業に就いている大橋も、今日の天候や気温の情報を確認したうえで雨具を用意したはずだ。しかし、所詮は気象庁をはじめとする団体からの発表頼みである。警告よりも現実が上回ると、なす術がない。

「下着類はコンビニで確保できるとして、着替えられる場所ありませんかね」

頭から靴まで、全身が被害に遭ったなか辛うじて水難を免れたスマートフォンを操り、大橋が難しそうな顔をした。

「とりあえず漫喫にと思ったんですが、ないですねこのへんには……昼間利用のビジネスホテルもなしかあ」

黒木自身は傘が無事だったおかげで首から上は乾いているが、足下を中心にズボンと上着がかなりの被害に遭っている。寒さはあまり感じていないものの、濡れた衣服を着たまま外に居るこの状況は早く何とかしたいし、何とかしてやりたい。

大橋のスマートフォンを借り、黒木は画面表示を動かした。

「このあたりに行けばどうにかなるんじゃないか」

現れた地区の、特定エリアを示して大橋に見せる。

「平日の昼間だし」

画面上の地図に表示された地域が意味するものと黒木の意図を解するや大橋は、目を丸くして黒木の顔をまじまじと見つめた。

「いいんですか?」

「風呂と屋根が最優先だろ」

「それはそうですけど、さすがにラブホ街は」

抑止の弁は2回連続のくしゃみに中断された。そのあともう1回くしゃみをしてしばらく考え込んでいたが、いろいろなものを天秤にかけた結果が出たようだ。

「わかりました。黒木さんに従います」

雨が弱まった隙を見て大橋は、まずはコンビニに寄りましょうと提案し、先に軒下を出た。



入った部屋はいかにもという雰囲気はなく、いたって簡素な内装だった。枕元にさりげなく置かれた備品を除けば、ビジネスホテルとさして変わりがない。

順番にシャワーと着替えを済ませ、ようやくひと息ついてから大橋が改めてぐるりと部屋を見回した。

「適当に入った割りには問題なしですね」

黒木も、天井の四隅やテレビ、戸棚、装飾品の位置などの要所要所に目を向ける。大橋の見立て通り、ざっと見た限りではこの手の施設にありがちな盗撮および盗聴の心配はなさそうだ。

雨に湿った衣服を部屋中に並べて乾かすかたわら、ベッドサイドにある小さなチェストに途中コンビニエンスストアで調達した缶ビールとつまみを広げる。黒木はベッドに、大橋は木製の肘掛け椅子に座って形ばかりに乾杯をした。飲み下した冷たいアルコールが、暖まった体中に染み渡る。

「映画は残念でしたけど、真っ昼間の部屋飲みってのもアリですねえ」

二人そろって当直明けという稀有なタイミングを改めて讃えるように、大橋が缶ビールの柄を眺めた。

「休暇届け出してきた甲斐がありました」

大橋が配属されている竹の塚署は、都内屈指の忙しさを誇っている。黒木の配属先である東京湾臨海署も、かつてベイエリア分署と通称されていた頃よりはだいぶ忙しくなってはいるが、人員が増えたこともあり休暇届を出さないと当直明けの休みを確保できないほどではない。

「酒そのものが久し振りみたいだな」

早々に1つめを飲み干して次の缶に手を伸ばした所作を突っ込むと、大橋はそうなんです、と大袈裟に溜息をついた。

「最近、窃盗のほうから応援要請が多くて。車上荒らしの見回りとか同時多発した盗難の聞き込みなんかにしょっちゅう駆り出されてます」

そっちはどうですかという振りから、情報交換を兼ねた世間話が始まった。最近の犯罪傾向、毛色の変わった事件、経験から新しく得た知識など、周囲に人目がないことも手伝って普段より話が弾み、多めに買ったはずの酒が底をつきそうになったころ。

「……すみませんでした、この間は」

話題が途切れたわずかな隙に、ぽつりと、大橋が呟いた。

「その……強引に、誘ってしまって」

黒木が黙っていたのはとっさに話の筋が読めなかったゆえ反応が遅れただけなのだが、大橋は違う解釈をしたようだ。

「今更っていうのはわかってるんですけど、なかなか言い出せなくて……」

すみません。もう一度の謝罪と共に、大橋は黒木に頭を下げた。

以前、黒木と大橋は、青海駅前のビジネスホテルに二人きりで滞在したことがある。飲み食いして雑談に終始するいつもとは違う目的のために時間を共有したのは、後にも先にもあれ一度きりだ。そして話振りからするに大橋は、そのときのことをひどく気にしているらしい。

「強引ってほどでもないだろ」

誘ったのが大橋のほうなのは事実だが、無理矢理連れ込まれたわけでもない。まるで自分一人がすべて悪いと言わんばかりにうなだれる様を、黒木は優しい呆れと共に一笑に伏した。

「少なくとも合意の上なんだし」

大袈裟だなと言うも、大橋はまだ憂いが拭いきれないという顔をしていた。それはそうかもしれませんが……と前置きの語尾を不明瞭にして続ける。

「でも、俺と違って黒木さんには特定の相手がいますよね」

質問口調かつ固有名詞を出さないのは故意なのか無意識なのかわからなかったが、どちらにせよ職業病みたいなものだろうと判断して黒木は、大橋が考えているに違いないその名前と懸念を口にした。

「桜井のことなら、見当違いだぞ」

瞬時に反応して何かを言いかけた大橋を目で制し、言葉を継ぐ。

「お前が考えてるような関係はあるよ、でもそれだけだ」

少なくとも桜井は。胸の内で付け足し、黒木はきっぱりと言い切った。

「桜井が見てるのは、俺じゃない」

大橋の推測どおり、黒木は後輩の桜井太一郎と、職場の先輩後輩以外のつながりがある。あの日も、大橋から誘いの連絡がなけれ ばそのまま、風呂場から自分の部屋に戻ってきた桜井と一夜を共にしていたはずだ。しかしそれは恋人同士だからではなく、酔った勢いで持ちかけられた体の関係の延長に過ぎない。

桜井が本当に想いを寄せているのは、普段仕事上のペアを組んでおり、同じ職場のベテラン刑事である村雨秋彦巡査部長だ。黒木の傍に居て構うのは、細かい几帳面さと生真面目な性根が村雨に似ているからであって、黒木個人に興味があるわけではない。

「だから別に」

缶ビールを最後まで干し、黒木は手に持つそれに目線を落とした。

「お前と俺が何をしようと、桜井は気にしないよ」


しばらく、互いの間に長い沈黙が流れる。

静寂を破ったのは、大橋の静かな声だった。

「俺には、そうは思えません」

感情を抑えた声とは裏腹に、こちらを向いた眼差しには胸中のすべてが宿っている。

「桜井は、黒木さんのことを見てますし、たぶん俺たちのことも気にしてます」

「二言目には“村雨さん”なのにか?」

現状を告げた黒木の、間髪入れない冷静な反論に、かつて村雨と組んでいたこともある大橋はまた口をつぐんだ。

きつく結ばれて歪む唇と眉を寄せて閉じる瞼は、何かを迷い、我慢しているようにみえる。

やがて大橋は、腹を決めたように顔を上げると深く息を吸い吐きし、黒木を真正面から見据えて口を開いた。

「黒木さんはそれでいいんですか」

それは決して大きな声ではなかったのにもかかわらずはっきりと黒木の耳に届いたのは、この部屋に音がなかったからだけだろうか。

「桜井が、貴方越しにムラチョウを見ていても、いいんですか」

確かに、よくないとは、言い切れない。とはいえまったく思うところがないかと言えば、嘘になる。けれど、それも含めて桜井の誘いを受け入れたのは他ならぬ自分自身であり、割り切れない想いを告げたところで桜井を困らせるだけだ。

信用された理性を裏切ること。それだけは、どうしても避けたかった。

「……どうなんだろうな」

答えを濁そうとして失敗したのは、ここがいつもの居酒屋ではないからだと思いたい。

無意識に滲み出てしまった本心は、大橋が読みを裏付けするのに十分すぎるほどの情報を与えていた。

「……黒木さん」

再びの沈黙のあと、先ほどとは異なる口調で大橋が言った。

「お願いですから、俺の目の前でそんな顔しないでください」

「どうして」

他意はなく純粋な疑問として返したつもりだったが、相手はそうとらえなかったようだ。

「わかってるくせに聞かないでくださいよ」

困ったような、それでいて拗ねたような表情に黒木はなぜか、臨海署に居たころの大橋を思い出した。



外はまだ雨が降っているのか、すでに止んでいるのか、分厚い壁の内側ではわからない。

大橋の口付けは以前と同じく穏やかで、ときどき壊れ物を扱っているような動きをしながら、徐々に深みを増していく。

長い時間をかけたのちようやく離れた唇は、やはりひどく緩慢に首筋から鎖骨を通過して、胸のあたりで動きを止めた。片方を舌先で片方を指先で、黒木の息が上がりつくしてもなお執拗に攻めるその肩に思わず手をかけると、待っていたかのようにすべてが離れてまた唇を塞がれる。

珍しく、お互いの携帯電話は静かだった。大橋は休暇届けが功を奏しているのだろうし、自分は今日、いつも組んでいる須田三郎巡査部長に誰と会っているかを伝えたことで、気を遣ってもらっている可能性が高い。

ふと、黒木の脳裏に、須田チョウは桜井に今日の話を伝えただろうかという考えがよぎった。

このところ、自分の当直明けの夜は夕飯を一緒に済ませることが多い。たいていは仕事が上がった桜井から連絡が来て誘われてという流れになるが、今日も連絡はくるのだろうか。それとも。

「黒木さん、」

呼ばれて意識を戻した途端、こちらを見つめる大橋と目が合った。

「今だけでも、構いません」

髪を梳き撫でて耳に落ちてきた囁きは、この間と同じ、息ひとつ乱れのないものだったけれど。

「俺のことだけ、見てくれませんか」

次の瞬間、大橋はこの上なく強く黒木の体を抱き締めた。

腕の中の体が決して頷かないことを、覚悟しているかのように。



黒木が東京テレポート駅の構内を出たとき、雨はすっかり上がっていた。明日の天候回復を伝える夕陽が、雲間から茜色の光を投げている。

警察署前の交差点に差し掛かったあたりで内ポケットに振動を感じた。着信の種類から呼び出しでないことを確信しているのに素早く電話を手にしたのは、帰り際の大橋の言葉を思い出したからだ。


「俺が言うのも変ですけど、桜井の気持ちもわかりますよ」

休暇届けの効力切れを告げる緊急呼び出しの通話を終え、今度は必ず居酒屋にしましょうと力強く希望したあと大橋は黒木に言った。

「黒木さん、いつも冷静ですから。あいつもいろいろ警戒してんだと思います」

何に対してという質問は部屋にかかってきた延長の確認電話に遮られてうやむやになってしまったが、おそらく聞いても大橋は答えてくれなかっただろう。


『あ、お疲れさまです、桜井です』

聞こえてきた最初の言い回しが堅苦しいのは、まだ職場にいることを表している。

『ぼく、21時前には上がれそうなんですが、黒木さん何してるのかなと思って』

桜井の口調はいつもどおりで、声だけでは今日の外出先と相手を知っているのかどうかはわからなかった。

「出掛けてたけど、もう署の傍にいるよ」

視界に入ってくる庁舎を眺めて黒木は、少し考えたあと、いつもなら先に言われる言葉を口にしてみた。

「飯はまだなんだ。何もなければ大井町にでも出ないか」

一瞬だけ息を飲んだような間があったのは、きっと気のせいに違いないが。

『わかりました。じゃあ、署を出る前に連絡します』

戻ってきた返答は、いつもより明るいような印象があった。

『早めに上がれるようにしますから』

ぜったい、待っててくださいね。心持ち強い念押しのあと、結びの言葉と共に回線が切れた。


通話を終え、黒木は夕陽をあびる臨海署を、今一度仰ぎ見る。


予想外の雨に濡れた服はほとんど乾いていたが、まだ少し、ほんのりと湿っている。

桜井の上がりまでまだだいぶ時間がある、まずは風呂に入って着替えを済ませて、今日はどの店にするかも決めておこうか。

心の中で小さく頷き、黒木は待機寮に向かって歩き出した。



2013.12.18

2000打御礼リクエスト えむ山羊様

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