『場所』(速水×安積、須田)




午前中降っていた雨はからりと晴れ上がり、太陽が照りつけている。

東京湾臨海署にある刑事部屋から屋外に出た安積剛志は、ひとつ大きく伸びをした。

休みの日に職場にくるのはなるべく避けようと思っているが、普段の忙しさに加え神南署から臨海署への引っ越しがあったとなれば多少の無理は仕方がない。気がつけば、もう昼の12時を回っていた。集中力が切れかけていたわけだ。

若い頃なら時間の許す限り平日も休日も昼も夜もなく働けたものだがと思いながら安積が飲食店のほうに足を向けると、隣接している独身寮、通称待機寮の前に見慣れない軽トラックが止まっているのに気がついた。何気なく横を通りすぎようとしたとき、知っている声が聞こえてきた。

「あれ、ハンチョウ」

驚き顔と汗だくの須田三郎が、黒いTシャツにブルージーンズ、頭には白いタオルという出で立ちで大きな荷物を抱えて立っていた。彼は安積が係長を務めている臨海署刑事課第一係の部長刑事である。

「もしかして手伝いにきてくれたんですか」

言われて気がついた、今日は神南署の寮から臨海署の寮への引っ越しをする日だ。

違う、と言うのも何となく悪いなと思っていた矢先、須田が安積の心中を見抜いたようににやりと笑った。

「冗談ですよ、ハンチョウ。昨日も遅くまで仕事されてましたもんね」

「いやしかし、人手がいるなら手伝うぞ」

「大丈夫ですよ、黒木も桜井もいますし。ほら」

須田が両手を塞いだまま体全体で指し示したほうを向くと、同じく安積班の黒木和也巡査長と桜井太一郎巡査が、だいぶ重量のありそうな段ボールを二人で抱え、寮の入口に入って行くところが見えた。黒木はグレーのポロシャツに濃紺のジーンズ、桜井は白地のプリントTシャツに迷彩柄の七分丈パンツと、それぞれ動きやすそうな格好をしている。

「個人個人で作業すると効率悪いんで、三人で軽トラ借りて荷物運びだけ皆でやっちゃうことにしたんです。さっき俺の部屋が済んだんで今は黒木のを運んでるんですけど、あいつ、率先して重いもの運んでくれてるのに自分の荷物は俺と桜井のの半分もないんですよ」

だから今日は俺と桜井で驕るつもりなんです、言ってから、須田は急に声のトーンを落として秘密を共有する小学生のような表情をした。

「黒木には内緒ですよ。そんなこと言ったら飲み食いしなくなりますから」

黒木の堅物さは安積もよく知っているがそこまでとは知らなかった。まあ、黒木らしいといえばそうなのかもしれない。

では、お疲れさまです。安積にぺこりと頭を下げて、須田はえっちらおっちら寮の入口へ向かって行ってしまった。


いつ見ても刑事には見えない奴だなと須田の背中を見送りながら、安積は待機寮を仰ぎ見た。この建物の中すべてに警察官が居て生活をしているのかと思うとかなり圧巻だ。

そういえば自分が待機寮を出た日も、こんな快晴の暑い日だった。

安積が待機寮の世話になっていたころはちょうど相部屋よりも個人部屋の寮が増えつつあるときで、安積は運良く個人部屋のある寮に住むことができた。そうは言っても待機寮である、見えない規律の支配もあったが、それでも警察学校の窮屈な相部屋から独身寮へ移ったときの開放感は忘れられない。そして独身寮から出るときは、それに責任感が加わったことをよく覚えている。これから家庭を持って家族という社会を営んでいくのだという責任感。仲間のいる場所に帰るのではなく、家族のもとへ帰るのだというくすぐったい気負い。あの頃は良かったとは思わないが、今の境遇を考えると少しだけ切なさが安積の胸に去来する。

同時に安積は、同期で同年齢の速水直樹が独身寮を出たのも自分と同じ時期だったことを思い出した。

署の近隣に建てられている独身寮の通称が「待機寮」なのは、入寮者、つまり独身で身軽な警察官が緊急の呼び出しにすぐ対応するという意味であり、独身寮の目的のひとつでもある。そのため独身者はよほどの理由がない限り入寮することになるのだが、実は「独身者は全員入寮しなければならない」とか「結婚するまではいなくてはいけない」という決まりはない。最近はそうでもないらしいが、かつてはそのあたりの暗黙ルールにも皆きちんと従っていた。とくに階級が低かったり年齢が若かったりという者は、まず逆らえない。

当時の自分たちは年齢も階級も今の桜井と同じくらい、つまり若くて階級も高くなかった。しかし速水は独身なのにもかかわらず、自分と同じ時期、正確にはその翌日に待機寮を出た。


それは安積の荷物が部屋の外にすべて出され、最後の掃除をしているときだった。

「俺も明日、ここ出るぞ」

そばにいるのに手伝いもせず、窓の外を眺めた姿勢で速水が言った。

その頃はまだ警察の暗黙ルールを尊重しようとしていた安積は、突然の告白にずいぶん驚いた。

「いいのか?」

「許可はとった」

誰にとった許可なのか深くは聞かなかったが、速水のことだから自分の上司なり寮に残っている先輩なり、文句の出そうなところをすべて封じて万全の体制でここを出るのだろう。実際、あの頃既に速水には人を強く惹きつけるうえになぜか型破りな行動を周囲に納得させる力が備わっており、寮の委員長でもなければ滞在が長いわけでもないのに寮内の裏表を知り尽くし、取り仕切っていた。

「署までどれくらいかかるんだ」

当時交番巡査だった速水が希望していた配属先の交通機動隊、通称交機隊は機動力が命だ。今後のことを心配した安積の問いに返ってきたのは「10分」の一言。

「出動に困る距離じゃない」

「なら、出なくてもいいじゃないか」

若干呆れた安積に、速水は顔を向けもせずに答える。

「待っていてほしい奴がいない場所に帰ってきても仕方ないだろう」

そのまま速水は、ずっと窓の外を見つめていた。

呟いた安積の償いへもただ頷くだけで振り向かずにいてくれた、あの背中の温もりと優しさは今でも忘れていない。



急に背後でクラクションを鳴らされて、安積は驚いて振り返った。

「おい、仕事中毒」

歩道に滑らかな動きで片寄せされた車の窓が、すうっと開く。

全開の窓枠から肘を出し、肩ごと頭を乗り出した速水が、からかいを含んだ声と顔で安積を見上げていた。

「よくまあこんなくそ暑い日に出勤する気になるもんだ」

険しい眉は太陽の眩しさとスーツ姿の安積の両方にだろう。

「お前に言われたくない」

安積がそう言い返したのは、今日が速水の勤務日ではないことを知っているからだ。

「こんなところで何してるんだ」

「巡回中に決まってるだろう」

どっちが仕事中毒か。安積の顔に浮かんだ表情の意味を即座に見抜いたらしい速水が本気にするなと言った。

「臨海署待機寮出戻りの奴らを手伝ってやろうと思って来たんだよ。そしたら須田の野郎、速水さんに借り作るなんてこわくてできませんから遠慮します、なんて抜かしやがる」

まったくお前の教育はどうなってんだ、鼻を鳴らして悪態をつく速水に、そのときの状況を思い浮かべた安積はあやうく吹き出しそうになった。きっと、須田は申し出を蹴ることに心を痛めつつ黒木と桜井を守ってやろうと必死だったに違いない。速水の酒癖の悪さを知っている者からすれば、明日のみならず明後日にも影響が出ると見越して御礼という名の打ち上げ参加を断ったことは、速水には申し訳ないが先輩として的確な判断であろう。しかし、別に構わないけどなと言いつつ拗ね気味の速水には、頬の弛みを抑えることができなかった。

本当にこの、不器用なそれでいて温かい速水の優しさは、20年以上の時が経っても少しも変わることがない。

「それは済まなかった」

今やくすくすと肩を揺らして、安積は形ばかり部下の非礼を謝罪する。

「お詫びのしるしに食事でもどうだ。もちろん奢る」

一瞬、速水が怪訝な表情をしたのを安積は見逃さなかった。速水がこんな表情をするときは予想外の展開に割と驚いているときだ。しかしすぐさまいつもに戻り、誤摩化されてやるかと口の端を上げて助手席のロックを開ける。

「仕事はいいのか」

「いい。こんな暑い日に出勤するほうがどうかしていた」

正しい選択だ、同意を示してから速水はハザードを切り、安積が乗るや否や流れるようなハンドルさばきと共にアクセルを踏み込んだ。

「で、どこに行くつもりなんだ」

「そうだな、」

わずかに考えを巡らせるふりをして、安積はすでに決めていた場所の名を告げる。

「なんだ、すいぶん安上がりな詫びだな」

不満そうな言葉で突っ込んだ割に細められた速水の目は楽しげだ。

「それならまずは買い出しか。たまには渋谷あたりに立ち寄って適当に見繕うのはどうだ」

「そうだな。ただし酒は近所の量販店にしてくれ。お前の飲む量を考えたら標準価格じゃ財布がもたん」

安積の提案に速水が意外そうな顔をした。

「なんだ、飲む気なのか?」

それなら車を、言いかけた速水を安積が遮った。

「もちろん飲酒運転させる気はない」

一瞬の間の後、車内に意味を理解した速水の笑い声が響いた。相変わらず遠回しな誘いだなと皮肉ることは忘れずにカーナビの目的地に衣料雑貨や日用品を取り扱う大型ホームセンターを追加する。

「安心しろ、醒めるまで居座ってやる」

なんなら一緒に出勤するか、冗談めかして付け加えた速水を調子に乗るなと諌めるも、安積はネクタイを緩めて助手席に身を沈めた。今自分の帰る場所に待っていてほしい人はいないけれど、共に帰りたい人が隣に居てくれることへの至福と安らぎを感じながら。


2011.2.20


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初の速水安積。

黒木と桜井の私服も書きたかったのです。

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