『8日間』(現代版:兼続三成)
楽しい時間は瞬く間に過ぎてしまうとは使い古された陳腐な表現だと、わかってはいるがそう思わずにはいられない。
寝返りをうって転がって、三成は隣の枕へ深く顔を埋めた。
さっきまでここにいた主、兼続は、目覚ましのアラームが鳴るや否や起き上がり台所へ行ってしまった。もう間もなくしたら、三成が昨日リクエストした硬めのスクランブルエッグとカリカリ手前のベーコン、6枚切りトーストの焼ける匂いが漂ってくるはずだ。野菜はたぶん半分に切ったミニトマト。彩り面でと輪切りのキュウリとレタスもあるかもしれない。
もう少しゆっくりでもいいのに。まだ暖かさの残る枕に向かって、三成は小さく不満を漏らしてみる。帰りの日程なんて教えなければよかった。
クリスマス当日の昨夜、寝物語に何気なく、明後日27日の昼まで休みだから26日の最終か27日の始発で帰ると兼続に告げた途端、真っ向から否定された。
曰く、帰りは明日昼前の新幹線には乗らないとだめだ、最終で帰ったらただでさえ忙しい年末のさなか絶対に体調を壊す、まして明後日の始発でなんてとんでもない、今無理をしなくてもすぐまた会えるじゃないか、と。
確かに普段の連休と違って、今回は年末年始の長期休みが目の前だ。今年は兼続が都内の三成の家で年を越す番になっている。
「29日の仕事納めが済んだらその足で新幹線に乗るから。約束する」
だから早めに帰って体を休めたほうがいい、真っ直ぐな眼差しで諭されてしぶしぶ承諾したものの、ぎりぎりまで一緒にいたい気持ちが冷めるわけではない。
帰りの切符は時間に融通の利く自由席じゃなくて行きと同じく指定席にしてくれればよかったものを。逆恨みだと頭でわかってはいてもつい、気の利きすぎる秘書の有能さへ文句をつけたくなってしまう。
できたぞという台所からの呼び声へ、ささやかな抵抗を込めた気だるい返事をする。ようやく9時すぎを指したばかりの時計を横目に、三成は溜め息と共にベッドを降りた。
朝食は、予想通りのメニューにコーヒーとヨーグルトがついていた。添えられたオレンジのジャムは、酸味が強い三成好みの味だ。
「食べて少ししたら出ようかと思うんだが、どうかな」
兼続の計画は、車で市内にある馴染みの蔵元に予約してある左近への土産を受け取ってから、一昨日クリスマスディナーを食べ損ねたいつもの店で早めの昼食。その足で新潟駅へ向かって解散、というものだった。
慌ただしいなと言いかけてやめたのは、昨晩の約束、29日の仕事納めを終えたらその足で新幹線に乗るという兼続の言葉に同意した自分を思い出したからだ。いつまでも未練がましくうじうじするのはお互いのためにならない。
それでもただ同意するのは癪だから、秀吉社長と所属部署への土産購入にも付き合えと返すと、兼続はそのつもりだよと笑って空のカップにコーヒーのお代わりを注いでくれた。
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朝のうち射していた陽が雲に隠れ始めた。たぶんこれから雪になる、今日も新潟は寒い一日になりそうだ。
ほぼ半年振りに乗る兼続の車は、相変わらず居心地が良かった。空調、背もたれの角度と素材、ゴミ箱の位置、ドリンクホルダーのサイズ。どれひとつとっても持ち主の行き届き感がある。
小さなドライブのBGMは何年か前にヒットを飛ばしてメジャーデビューしたバンドのファーストアルバムだった。三成たちが社会人になったばかりの頃に発売されたそれは、当時よく耳にしていた曲の大半が収められている。
「懐かしいな」
アルバムの中盤、彼らのデビュー曲が流れ始めた矢先に兼続が目を細めた。
「そうだな」
相槌を打って三成は窓の外を見る。初めて兼続の運転する車に乗ったのはつい4、5年前なのにはるか遠い昔のことのように思えるのは、市内へ向かう町並みがだいぶ変わったせいだけではないだろう。
あの日は確か、朝から霧雨が降っていた。
運転席には兼続、助手席に三成。そして後部座席には三成の上司である秀吉社長と、兼続の上司である景勝社長。
業務提携の内密約を邪魔者なしで進めるため、あえて豊臣と上杉に車を分けず商談の店に行く道中、背筋を伸ばして正面を見据え強くハンドルを握る兼続は、三成の社交にも気のない返答しかしないほど無口だった。もともと愛想のない男なのかそれとも極度に緊張してるのか単に礼儀知らずなのか、どのみち碌でもない奴だなと半ば呆れ気味の評価を下した三成だったが、実は車内で秀吉が提案提示した不平等な契約内容に腹を立てていたゆえ必死に冷静さを装っていたんだと、だいぶ後になって兼続本人から聞いた。
やや傾きかけているとはいえ老舗の大手派遣企業である上杉の、その優秀な登録人材と業務ノウハウもろとも我がものにしたい秀吉に、退路のない密室での移動商談を提案したのは他ならない三成だ。当時の兼続の肚の内を知った三成がさんざん迷った結果その事実を告げて謝罪したとき、兼続の口から出た言葉は罵倒ではなく「正直さに惚れ直したよ」だったっけ。
決別される覚悟だったのにあっさり許しをもらってしまい、極度の拍子抜けと安心とで意味なく腹を立てながら泣いてしまったのは、今でも三成の消したい過去トップ10に含まれている。
「どうした?」
気恥ずかしい記憶に小さく唇を歪めた三成を、兼続が不思議そうな顔で見つめた。
「いや、」
信号待ちのたび静かにサイドブレーキをひき、発進は滑らかにアクセルを踏むその所作を眺めて三成が言葉を返す。
「お前は変わってほしくないなと思っただけだ」
そのまま窓のほうへ視線をやった三成は、聞こえてきた兼続の意味ありげな含み笑いに鼻をならしてみせた。
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左近のために蔵元で本数限定の大吟醸を2本も予約したという兼続を大げさすぎると諌めたり、会社の土産を相談したりランチはパスタのコースにするかリゾットのコースにするかで意見を交わし合ったり。他愛のない二人の時間は穏やかに緩やかに、しかし確実に、流れていく。
極力見ないようにしていたが、つい目にしてしまったレストランの壁時計の針の進み具合に三成は思わず低めに呟いた。
「もうこんな時間か」
兼続も腕時計を見る。
「そろそろ出るか」
底に薄く残った2杯めのエスプレッソを飲み干して、兼続が店員を呼んだ。
「今日はご馳走するよ」
拒否しても聞かないことはわかっているから、三成は次は俺の番だからなとだけ言い、兼続が会計を済ませている間に店の外へ出た。
厚いドア硝子越しに、店員と和やかに談笑している兼続が見える。小さな袋を渡されたのは、たぶん先日の予約重複についての店側からの詫びだろう。こちらに非はないのに困った様子で辞退する兼続の姿が可笑しくて、肩をすくめながらも三成は頬を緩めた。
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店を出たとき降り始めた粉雪が強くなってきた。時刻は11時50分ちょっと過ぎ、車のスピードから判断するに兼続は、12時台の最初、11分発の東京行き新幹線に三成を乗せるつもりなのだろう。
次の新幹線でもいい、喉まで出しかけやめるを何度か繰り返した先、とうとう新潟駅に向かう最後の交差点が見えてきた。ここを右折すると新潟駅中央南口に入って別れの言葉を交わすことになる。
だが何故か兼続は、右折車線に入らず直進のほうにハンドルを切った。
不審に眉を寄せた三成に気付いても困った様子はなく車線を変えようともしない。
「おい」
慌てて声をかけると、前を向いたまま兼続が突然、すまない、と詫びた。
「今まで黙っていたことがある」
信号待ちの間にひと息ついて兼続は、真顔で次の言葉を待っている三成のほうを向いた。
「これから、都内で仕事なんだ」
「はあ?」
思わず聞き返した三成に兼続は、内緒にしていて悪かったと口では言いつつ、堪えていた甲斐があったと言わんばかりに口元から笑みをこぼした。
「実はずいぶん前から年末に都内で仕事が入っていてな。明日27日の朝から28日の晩までは、どのみち東京にいる予定だったんだ」
あっけにとられる三成の横で、また嬉しそうに兼続が言う。
「ついでに29日から5日まで有給をとったから、しばらく一緒にいられるよ」
まずは今晩の夕飯を決めないとな、心底楽し気な兼続をうっかり眺めてしまったあと我に返った三成は、とたんに表情を険しくして兼続を睨みつけた。
「なら、途中でスーパーにでも寄るんだな」
まんまと引っ掛けられてしまったことへの悔しさと1週間以上二人きりで居られることの嬉しさと、それを悟られまいとする照れ隠しとで、勢い語調が強くなる。
「スーパー?」
驚いて眉を上げた兼続に、三成は口を尖らせた。
「夕飯は手料理じゃないと許さん」
「ああ」
すかさず何が食べたいんだと聞かれるも、そんなにぽんぽん出てくるかと怒り口調を崩さないまま三成はそっぽを向く。そんな所作を見つめて兼続は、好物を作るから許してくれと優しくなだめ、癖のある柔らかい髪を撫でた。
「まずは吉崎でコーヒーを買おうか」
言いながら、器用にCDケースを探って兼続は1枚のアルバムを取り出した。停車の間にいくつか曲をスキップさせてようやく流した洋楽の、英語の歌詞のサビ部分だけを口ずさむ。
「……恥ずかしい奴め」
意味を解してますます顔を背けた三成に、兼続は穏やかに微笑んだ。
1週間の8日間
ずっとずっと愛しているよ
1週間が8日間
あったとしても足りぬほど
2011.8.4 しの様へ 海